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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

官僚の忖度

2019-08-31 23:07:57 | 政治

>新井信介「京の風」リンク より引用します。 > 官僚の「忖度(そんたく)」支配。 >これを続けるの? >司法もその仲間? >無責任体制の根源はここ。
> (前略)
> 今回の森友学園の認可と、国有地の払い下げが、どれほど異常なスピードで進められたものであったか、作新学園の船田元議員がテレビで指摘していました。 > 官僚たちが、時の権力者の思いを忖度する。>そして、国家の許認可のために、一斉に動く。

非現実 (考え) の内容は、頭の中に存在する。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、文法に従って文章内容を理解しなくてはならない。それは、骨の折れる仕事である。だから、普通日本人は、理解をしない。忖度 (推察) で間に合わせている。官僚の ‘ぜひとも、ご理解ください’ は、理解ではなくて忖度の要求である。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の “理解”について下記のごとく述べています。

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、 “リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が “理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。 “相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の “日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、 “理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

我が国の官僚は、理解と忖度 (推察) の意味を混同しているようだが、実は、両者は似ても似つかぬ代物ものである。だから、要注意である。
理解は、話者の内容に関係する事柄であるが、忖度は、聞き手の勝手な解釈の内容である。話者には何の責任もない。忖度の主は、現実直視 (実験・観察) ができていない。だから、議論にも加わることができない。独り善がりの風来坊なのである。こうした人物が、国家の許認可のために働くことは、亡国の兆しに他ならない。

> 明治維新後、神聖不可侵の「天皇」の絶対権威を使って、権力者(軍部・官僚・財界)の意向を、臣民に強制した。

そうですね。日本人には、意思がない。意思 (will) は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。日本人には、意思はなくても恣意 (self-will) がある。意思は文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので意味がない。意思疎通がなくても、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。意思決定 (理性判断) がなくても、恣意決定 (盲目の判断) がある。上意下達で、その意向が伝えられる。意思の人には責任があるが、恣意の人には責任がない。説明責任が取れない。兎角、この世は無責任。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>このときから、官僚たちの「忖度」は始まっている。> 戦前の反省から始まったはずの戦後の日本国家は、主権在民のはずだったが、「忖度」は、そのまま残っていた。

そうですね。理解のできない人たちには、忖度しかないでしょうね。

>このときの総理大臣が、当然、日本国家では最高権力者だったが、その人間が指示を仰ぐ人間がいれば、「忖度」は、その指示の発令者に向かっていく。>自民党の結党時から、そこには、アメリカのCIAがいた。

伝統的な世俗的序列制度は、公的な責任制度を超えて作用しますからね。

>田中角栄以後は、さらに詳細に指示を出すジャパンハンドラーがいたのだろう。>では、民主党政権のあとの、第二次安倍政権のときに、なぜ、これが異常に膨らんだのか? >しかも、メディアまで、完全に従わせた。 

論功行賞を強めたからでしょう。

> 「忖度」で、行政の各司(つかさ)の担当責任者が、どんどん法の枠を越えて、物事を進める。

処世術 (現実) の横行ですね。

>これに対するチェック機能が、全くなかった。

日本人には、批判精神 (非現実) がないですからね。

>司法も、「忖度」する側=官僚の味方だった。>そして、この日本列島には、それを正す手段がなかった。>今回、アメリカにトランプ政権ができて、ようやく露見した。

トランプ政権には忖度が通じませんからね。

>つまり、これまでは、皆、少しでも権力に近づくものは、この「忖度」の輪の中に入っていたのだ。>この状況を正すとすれば、それは、行政の最高権力者個人の、人間性、人格、力量に頼るしかないのか?  

安倍首相は、期待薄ですね。

>この部分を、法的に、規制できないのか? 

勿論、あるでしょうね。わか国は、法治国ですからね。

> 少なくとも、今回の森友学園の校舎建設に関わる、3通の契約書を存在させ、それを許したままにする、国家の制度(行政のありかただけでなく、司法も含める)では、「私物国家」のそしりが、今後も続く。> 悲しいことだ。 

これは、批判精神を持たない民族の嘆きですね。

> 中央集権化の中で、国有財産の分配のみならず、軍事行為も、エネルギー政策も、農業も、医療も、国民とは離れて、「忖度」官僚たちが制度をかってに運用し、実態を作っていく。

法律の文章内容とその理解が徹底しない。意向とその忖度が横行する。官僚には、政治責任がない。これらは、全て国語教育の問題ですね。

>しかも、結果に対し、だれも責任をとらない。

意思の無い人には責任がない。例えば、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。
日本人には意思がない。だから、その行為にも責任がない。

>こんな統治体が、世界の中心になれるはずはない。

そうですね。早急な改革が必要ですね。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、言語における時制の大切さを十分深く理解する必要がありますね。さすれば、我々は、自己の世界観を明らかにして、自己の意思を示すことも可能になります。外国人からの理解も深まり、日本人は信頼されるようになります。国際的に協力者を得て未来社会の建設に貢献することがより一層可能になります。
 
>----------------------------------------------------------------
>引用おわり


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無責任体制

2019-08-31 18:02:15 | 政治

> 『戦争も東芝も原発も新国立競技場もすべては無責任体制~なぜ日本はバカな過ちを繰り返すのか』
> BLOGOS⇒リンク >以下転載開始
>・・・・・・・・・・・・
>戦後70年が過ぎ、再び戦争を始めようとしている日本。>原爆を2度も落とされ、絶対に安全だと言いはったのに、世界最悪の原発事故を起こしたにもかかわらず、火山活動が活発になっている鹿児島で原発再稼働をする日本。 >なぜ日本はバカな過ちを繰り返し、自滅を繰り返すのか。 >それは無責任体制だからだ。

そうですね。わが国には、責任体制がありませんね。

>誰も責任をとらない。

それは、責任者がいないからでしょう。

>誰も責任をとらせない。

意思の無い人には、責任がない。そして、日本人には、意思がない。それは、ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。
意思 (will) は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>責任がどこにあるか明確にされない。

人々には意思がない。責任は、わが国のどこにもない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

>誰も処罰されない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。意思の無い日本人には、仕方がない。だから、無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。これは、明治以前からの我々の仕来りのようなものである。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) 

>だから問題が起きても、うやむやなまま、また同じ過ちを何度となく繰り返すのだ。

そうですね。意思の無い人には、責任がない。全員に意思がないのであるから、責任もうやむやになる。辛抱強い日本人よ、安らかに眠ってください。過ちは何度となく繰り返しますから。
意思のある人には、加害者意識もある。罪の意識もある。深刻な反省に陥ることもある。贖罪の為の宗教 (キリスト教) にすがることもある。だが、日本人には、こうした行為が見られない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示すことができる。初めは、これらの三世界の内容は白紙の状態である。各人ともその白紙が気になって、自分自身でその内容を埋めて行く。この内容は、世界観と呼ばれるものである。自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は、批判精神を示したことになる。現実を改革する指針を示したことになる。
英語には時制があり、英米人には世界観がある。そして、批判精神をもっている。日本語には時制がないので、日本人には世界観がない。批判精神がなく、時流に流されている。空気に酔って、信頼性がない。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解する必要があります。さすれば、我々は、自己の世界観と意思を文章内容として表現することが可能になります。日本人の個人の意思と世界観を理解できれば、外国人も我々を信用するようになるでしょう。未来社会の建設に国際的な協力者を得て、人類の進歩に大きな貢献ができると思います。

(略)


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