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日本語 2/2

2019-08-19 22:05:27 | 政治

>◆国体の本義とは  >リンク
>>1937年に「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂されたようで、神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなっていたと紹介されていました。

国体とは、国家の体制のことである。わが国の国体は、序列体制である。序列人間が、半ば自動的に人間の序列を作る。特に理念のようなものはない。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断ができないと、日常会話も満足にできない言語環境になっている。
そのうえ、日本人の礼儀作法も序列作法になっているため、世俗的な序列判断ができないと、礼儀正しい日本人になることもできない。
‘人を見損なってはいけない’ という想いが強迫観念の域に達していて、人々は、ピリピリしている。そして、気疲れする。
序列メンタリティに慣れ親しむと、目上の者と目下の者の間に自分の位置を保ちながら、安堵感と強い帰属意識を持つようになる。これが我が国民の自国への強い執着となっている。
自己の序列を離れて他に行く所も見えていない。序列体制の存在しない土地においては序列による協力も不可能となり、寂しい。心身ともに疲れ果てる。だから、この島国から出られない。この島は、序列のある特殊な島である。

>◆戦後の神国日本  >リンク
>>戦前の「神国思想」が多くの生命を奪った経緯から、戦後になると、日本国憲法が制定され、政治の場から神国思想を排除するために、政教分離原則の厳格化と信教の自由の導入が行われ、日本社会の表舞台から神国思想は衰微した。

我が国においては、カミとシモは至る所に存在する。これは、人々の序列思考の賜物である。上下思考なくして、礼儀正しい日本人も考えられない。

>>しかし、2000年5月15日に、時の首相・森喜朗が、「日本は天皇を中心とした神の国」等発言した。

国体の明徴とは、天皇中心主義の国体観念を明らかに証拠立てることですね。天皇中心主義の発祥の地は、明らかに日本語の中にあるといえます。しかし、これは、哲学などではない。ただの事実です。序列を見つけては、価値あるものと一途に思い込む日本人の性癖です。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを学ぶのが良いと思います。英文法には時制 (tense) というものがあって、非現実 (考え) の内容を文章内容として表現することができます。
時制のある.文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができます。ですから、時制のある言語を話す人は、世界観を持つことができます。
非現実の世界は、各人初めは白紙の状態であるのですが、白紙の状態は各人が気になるところであります。ですから、各人で自主的にその内容を埋めて行くことになります。過去の内容も未来の内容も果てしなく展開可能であります。世界観の内容を持てば、それはその人の哲学であります。各人に、哲学は必要です。Everyone needs a philosophy.
‘あるべき姿’ は、未来時制の文章内容になります。この内容を基準にとって現実の内容を批判すれば、彼は、批判精神の持ち主となります。日本語には時制がないから、日本人には世界観がありません。ですから、日本人には批判精神がありません。日本人の好む比較は ‘上と見るか・下と見るか’ の比較であって、現実対現実の比較になります。すると、’それでどうした’ (So what?) の問いには、答えが出ない。だから、議論に意味がない。
意思は、未来時制の文章内容になります。日本語には時制がないので、日本人には意思がありません。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人は、仕方なく無為無策でいる。だから、指導力がありません。だが、日本人には恣意があります。意思は文章内容になるので意味がありますが、恣意はバラバラな単語のまま (小言・片言・独り言) で存在するから意味がありません。日本人には、意思の代わりに恣意 (私意・我儘・身勝手) があります。意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があります。このような有様では、国際社会に通用しませんね。
時制のある文書内容を作成して、自己の意思と世界観を大いに公表しなくてはならならないでしょう。さすれば、国際的にも理解が得られて、未来社会の建設に協力者と一緒になって大きな貢献ができます。これが、我々日本人の進むべき道でしょうね。英米人は、日本語を話しても日本語思考による閉塞状態に陥ることがありません。考え方が他にもあるからです。我々もこの方法を取り入れるべきですね。


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日本語 1/2

2019-08-19 21:42:02 | 社会

>◆戦前の神国日本 >リンク
>>明治維新により天皇が政権を奪還すると、国家神道が国教とされ、国家神道を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びついた。

そうですね。国粋主義 (超国家主義) は、自己慶賀への道ですね。相手を侮ることにもつながりますね。

>>日本の帝国主義・軍国主義路線の膨張、植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行った。

無哲学・能天気の民が受け売りするのを防止する方策でしょうね。為政者は、民があくまでも序列人間であることを強く望んでいますね。

>> 日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、「神州不滅」の主張の元に玉砕・神風特攻隊・本土決戦論などの、“臣民全て滅びようとも天皇家だけは厳然と残らねば・残されねばならない、そして日本が勝つのだ”という思想が横行し、多くの生命が失われた。

そうですね。
‘一将功成りて、万骨枯る’ ということですね。
‘彼を知り己を知れば、百戦危うからず’ ですね。 (孫子)
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)

>>大戦末期には、敗北が目に見えても、民衆の中には“いずれ神風が吹いて、敵艦隊をまとめて沈めてくれる”と本気で考えていた者がいたという。

そうですね。日本人は、現実直視 (実験・観察) ができないから、空気 (気分・雰囲気) に弱いですね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

>◆国体の本義は、戦争の指導原理に利用  >リンク
>>ABCD包囲陣によって「窮鼠猫をかむ」の状況において無謀な日米戦争(1941年12月8日から1945年8月15日)を戦うにあたっても、日本は、天壌無窮の神勅により立てられた天皇を戴く神国だから負けるはずがない。

信心のようなものですね。’他力本願・神頼み’ ですか。

>>必ず神風が吹き、日本が勝利すると国民を鼓舞する指導原理として「国体の本義」が利用され、神州不滅が喧伝さることとなる。

都合の良い話ばかりが喧伝されましたね。

>>この自己中心的で偏狭なナショナリズムは、日本の敗北によって否定された。

そうですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話が分かる為には、その文章内容を文法に従って理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で事を済ませている。ところが、理解と忖度は、似ても似つかぬ代物なのである。それを日本人は知らない。これは、実は、深刻な問題なのである。
理解は、発言者の内容に関する事柄である。忖度は、聞き手の勝手な解釈である。だから、聞き手の姿勢は、現実直視 (実験・観察) になっていない。忖度に関して発言者には、何の責任もない。議論にもならない。白昼夢ということか。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾のない文章は、すべて正しい考えを示している。考え方は、人により様々である。だから、正解は、一つではない。多数ある。 
矛盾をむくむ文章も、その矛盾を除去すれば正しい考えになる。矛盾の除去には、対話・議論が役に立ちます。



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