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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

大学教育 2/2

2019-08-16 23:01:59 | 教育

> ~中略~
> 以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。>その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。>本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。>貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。

‘いかにも、、、、らいし’ の光景が、感傷的な日本人の心を満足させていますね。

>貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。>周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。>これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。>主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。

感情的な日本人は、昔からの性質ですね。気分・雰囲気に弱くて、空気に酔に酔いやすい。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>意地悪なんです。>それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。 >異常ですよ、皆さん。>でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。

日本人は、‘いかにも、、、、らいし’ の光景を求めてやみませんからね。

> 同じことが大学生自身にも起きている。>低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。>あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。>格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。

そうですね。これも、我が国の序列作法による効果ですね。

>そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。

そうですね。無哲学・能天気では、どうにもなりませんね。

> 冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。>日本の大学は滅びます、遠からず。
>どこかで抵抗するしかありません。>「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。

そうですね。大学には、抜本的な対策が必要ですね。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。さすれば、自己の世界観と自己の意思を文章にして表明することができます。その内容に国際的な理解を得て信頼される人間になれます。未来社会の建設に幅広く協力者を得て指導的な役割を果たすことができるようになります。そして、人類の進歩に大きく貢献できます。

>文科省だってそんなにバカばかりじゃない。>官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。

この分では、100年間失敗しても、教育行政は改善されないでしょうね。日本語の特性を抜本的に見直さない限りは。

>でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。

そうですね。役人には政治責任がありませんからね。政治の責任は、ひとえに政治家の手の中にありますね。いや、国民の手の中かな。

>だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。>国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。>どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. これが、一番大切ですね。

(略)
> (2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)


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大学教育 1/2

2019-08-16 20:07:29 | 教育
   
>秋田稔行 ( 38 会社員 ) 17/11/11 PM00 【印刷用へ】
>内田樹 ~大学教育は生き延びられるのか?(リンク)より引用
> __________________________________
>そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。

日本人には、ただ眼前の内容だけがある。過去 (幻) の内容も無ければ、未来 (夢) の内容もない。
日本人には、ただ現実の内容だけがある。夢も幻も非現実の内容であるから、日本人には存在しない。だから、日本人は、’話にうつつ (現) を抜かしてはいけない’ と教えられています。

>多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。
                                                                                それは、適者生存 (the survival of the fittest) ですね。

>「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。>これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。

非現実 (考え) の内容も、人により様々ですからね。考えの正解は、一つではない。幾らでもある。

>日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。>でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。

そうですね。日本人には、非現実 (考え) の内容が想定外になっていますからね。こうした現実が全ての人間の活動を逆の方向に向かわせる原動力になっています。
意思は、未来時制の文章内容です。日本語文法には、時制 (tense) というものがありません。ですから、日本語の脳裏には、未来時制は存在しません。それで、日本人には、意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。無為無策でいる人を活発化するために、作法というものを教えます。個々の自己判断は必要なく、ただ決められたとおりに行動することにより、万事滞りなく儀式は終了いたします。これは、日常お馴染みの ‘思考停止と暗記物’ の勉強のようなものになります。

> 教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。

そうですね。無哲学・能天気のままでは、精神的に成熟した人間とは考えられませんね。
現実の内容は、頭の外に存在する。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。答えは一つである。楽ちんである。日本人には、現実の内容しかない。大学生は、退屈男・退屈女となる。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>格付けとは何の関係もない。

そうですね。世俗の格付けは、害毒の根源でしかありません。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が適切でないと、日本語の日常会話も満足に話せなくなります。そのうえ、日本人の礼儀作法も序列作法になっているので、世俗的な上下判断が適切でないと、礼儀正しい日本人にもなれません。人を見損なってはいけないという想いが強迫観念の域にまで達していて、日本人は始終緊張しています。ですから、我々は、人間の格付けに関する事柄は片時も忘れることができません。

>精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。>でも、そんなエビデンスはどこにもありません。

そうですね。エビデンスより大切なものが、我々の心には焼き付いています。

>あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。

そうですね。冷厳な事実も何のその。’心ここにあらざれば、視れども見えず、、、’ ですね。 (大学第三章)


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官僚病

2019-08-16 11:55:32 | 政治
> 『官僚病の起源』岸田秀 より引用
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>わたしがかねてから主張しているように、大東亜戦争における日本軍の惨敗の原因は、物量の差ではなく、>軍部官僚が言葉の真の意味での軍人の名に値しないのは、その卑怯さからも明らかである。

日本人には、意思がない。政治家とて、これは同じことである。意思がある人間であれば、その人の言動にはリーズン (理性・理由・適当) が求められる。意思のある人には、責任がある。日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
恣意の人には、リーズンがない。意思がないから、責任もない。だから、その人の行為は、議論の対象とはならない。政治家はノー・アイディアでいて、官僚には ‘良きに計らえ’ と指示する。すると、政治家は、既成事実の追認に追われる羽目になる。

>(物量の差のために敗れたというのは軍部官僚の卑怯な逃げ口上である。>物量の差のために必然的に敗れるのであれば、そのような戦〈いくさ〉はしなければよかったのである。>それに、ミッドウェイ海戦のように、物量的にアメリカ軍より優位にあったときも日本軍は惨敗している)

勝負は、やってみなければ分からないこともありますね。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)

>ましてや兵士たちの戦意や勇気の不足ではなかった。>(歴史上、この前の戦争における日本兵ほど身を犠牲にして懸命に戦った兵士がほかにいたであろうか)。

そうですね。日本人は、序列社会で育てられた序列人間です。序列人間は、祖国の序列に対する帰属意思が非常に強いですね。だから、懸命に戦います。

>最大の敗因は全体的戦略の欠落と個々の作戦のまずさであり、それは軍部官僚の責任なのである。

日本人には、意思がない。わが国には、相手の意思を問う者もいなければ、自己の意思を主張する者もいない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。意思の無い者には、責任もない。
意思は、未来時制の文章内容である。だが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容として表現される。英文法には時制があって、時制のある文章内容は、それぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容を表すことができる。それぞれの世界は、果てしなく展開が可能である。初めは、英米人の三世界は白紙の状態であるが、これは、かれらにとって気になることである。そこで、自分でその内容を少しずつ埋めて行く。
思春期になって言語能力が急速に進むと、高等教育を受ける時期になる。そして、教養教育を受けながら自分自身の哲学をもつようになる。各人に、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 自己の世界観 (非現実) に従って、現実の内容を批判すれば、その人は、批判精神の持ち主になる。
日本語には、時制がない。それで、日本人には、世界観がない。だから、批判精神もない。全体的戦略の欠落を批判することができない。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>そして、この点が重要なのであるが、軍部官僚の失敗は軍人であるがゆえの失敗ではなく、官僚であるがゆえの失敗であった。>大日本帝国は軍国主義のためではなく、いわば官僚主義のために滅んだのである。

そのように考えることもできますね。日本人は、序列人間ですからね。序列間の争いばかりに気がとられていたのではありませんか。自己の序列への帰属意識が強く、’省益 (陸軍省・海軍省) あって、国益 (大日本帝国) なし’ の状態でしたね。我田引水の成れの果てというのかな。

>軍国主義のためではなく、官僚主義のために310万の日本人と1000万以上(推定)のアジア人が死んだのである。

それは、序列メンタリティを背景にした ‘思考停止と上意下達’ の弊害によるものでしょうね。
日本人には意思がなくて、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思決定がなくて、恣意決定がある。意思疎通がなくて、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。
意思は、未来時制の文章内容になるので意味がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章にならないから意味がない。意味があれば、議論の対象になる。意味がなければ、議論にもならない。これが、日本人の間柄でしょう。

>もし当時の日本を支配していたのが、軍部官僚ではなく、政治の延長として軍事力を用いる非官僚的な軍国主義者、すなわち、彼我の軍事力のバランスを冷静に検討し、作戦の合理性を重視する軍国主義者であったとすれば、日本は戦争に突入していなかったかもしれないし、突入しても傷の浅いところで早目に切りあげていたかもしれない。

そうですね。彼を知り己を知れば、百戦危うからず。(孫子)

>戦後のわれわれはその点を見ず、単純に軍人に任せたのがよくなかったと考え、軍というものに病的な恐怖反応を示し、一部の者は、軍隊かどうか疑わしい自衛隊がいささかの発言権を持つのさえ恐れるが、それは敵を取り違えているのであって、真に恐れなければならないのは官僚なのである。

民主主義の世の中では、軍人も官僚も民意の代表者ではありませんね。これが民主主義の基本ですね。

>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>(引用以上)



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