>ゴーカイジャー ( 41 会社員 ) 11/03/23 PM06 【印刷用へ】
> 世の多くの人は、「仕事は辛く苦しいもの」と思っているのではないでしょうか。
そうですね。’不自由を常と思えば不足なし’ ですね。頑張らなくてはいけない。
>しかし、「自己実現」という言葉が個人主義を美化する意味で使われているように、仕事は自分が楽しくやれるものでなければ本当の仕事ではない、とまで思い込まされ仕事に当たっているのではないでしょうか。
そうですね。現実の内容と理想 (非現実) の内容とは一致ませんね。仕事で個性が生かせるとよいですがね。
> 上記のような実感捨象の観念からは、現実突破の方法は見えてきません。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現させることができれば、それは創造力を発揮したことになります。人間固有の個性を発揮したことになります。
現実の内容を現実の世界で再現すれば、それは模倣になります。没個性の作業ですね。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の国民は、創造が苦手で、模倣が得意です。没個性の世界では、とかく競争が厳しいものになります。
>現実直視して初めて「仕事を活力を持ってやるにはどうしたらいいか?」の実現課題が見えてくると思います。
意思がある所に方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
意思のある人には、能動がある。意思の無い人は、受動ばかりである。だから、活力がない。
日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。だから、活力もない。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思の内容は、非現実 (考え) の内容である。考えの内容は、頭の中にある。外からは見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、文法に従って、文章を理解しなければならない。これは、骨の折れる仕事である。
だから、日本人は、理解を避けて、忖度 (推察) を利用する。忖度の内容を使って、ことを処理している。だが、理解と忖度は、似て非なるものなので、注意しなくてはならない。
‘理解’ は、話者の内容に関するものであるが、’忖度’ は、聞き手の勝手な解釈である。だから、その内容は、話者には関係もなく、責任もない。議論にもならない。話者の内容と、忖度の人の内容のちがいを指摘すれば、忖度の人は、’だって、本当にそう思ったのだからに仕方がないのではないか’ と反論する。この誤解は、深刻なものである。国語の問題として注意を喚起したい。日本語脳の持ち主は、現実直視 (実験と観察) ができない。そして、感情的に舞い上がる。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。現実の内容には、唯一の正解が存在する。だが、非現実 (考え) の内容は、人様々である。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
日本人には意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。恣意 (私意・我儘・身勝手) は文章にならないで、ばらばらな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。意味も無ければ、意義もない。意思の疎通はできないが、恣意の疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) が得意である。
自由とは、意思の自由のことである。意思がなければ、自由にも意味がない、恣意はあっても、その自由は認められていない。恣意の自由は、’自由のはき違え’ となって、認められることがない、だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解しなくてはならない。時制の活用ができれば、日本語を話す時にも、閉塞感に襲われることはない。自己の世界観と意思を示すことにより、広く人々から信頼されることになる。未来社会の建設にも国際的に協力者を得て人類の進歩に貢献できるでしょう。
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