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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

言語能力

2019-08-20 14:32:07 | 文化

(略)
>●現在
> 戦後、多くの若者の心を捉えた数少ない作家の一人に三島由紀夫がいる。 >彼は、右派でありながら左派の学生の心も捉えた。 >その意味で、イデオロギー=観念を超えた潜在思念の次元でつながる「力強いコトバ」を生み出した。

全ての言葉は、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。その話の内容が分かるためには、文法に従って文章内容を理解しなければならない。これは、骨の折れる作業である。だから、通常日本人は、理解をしない。その代わりとして忖度 (推察) で、その場をしのいでいる。だが、忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、現実直視 (実験・観察) になっていない。だから、話者には何の責任もない。議論にもならない。歌詠みのようなものになってしまう。現実を動かす力にはならない。

>それに対して、現在は、インターネットの普及によって情報は増大したものの、ネットウヨク、ネットサヨクの紋切り型の言論が、お互いを罵倒しあっているばかりであり、山崎行太郎氏のいう「論壇の劣化」が著しい。

日本人は、相手を罵倒するのが取得ですからね。気分・雰囲気の表現には、力が入ります。

>この劣化状況は「日本を守るのに右も左もない」というコトバ以前の感覚が失われてしまっているからだろう。> 江戸から今日までを振り返ってみたが、日本人のコトバの欠乏の原点にあるのは、自治共同体を守り育てるという意志にあると思う。

日本人には、意思がない。自治共同体の ‘あるべき姿’ もない。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
しかし、日本人には、恣意がある。意思は文章内容になるが、恣意はばらばらな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。恣意は、文章にならないから、意味も無い。日本人には、意思決定 (理性判断) の代わりに、恣意決定 (盲目の判断) がある。意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。
意思の無い人は、優柔不断・意志薄弱に見える。剣道の練習などで身を鍛えて精神修養を積まなくてはならない。この修練により活発な動作の人間は育つが、リーズン (理性・理由・適当) のある人間は得られない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>それが、明治→昭和の時代は、欧米列強に打ち勝つという意志に移行したと思われるが、経済成長を果たし、アメリカを抜いて以降、日本は目標=未来を見失っている。

日本人には、世界観 (過去・現在・未来) の内容がない。非現実 (考え) の内容が、想定外になっている。だから、日本人は、常に未来に関する目標を見失っている。
非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章内容になる。時制のある文章内容は、それぞれ独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。その内容は、はじめは白紙の状態であるが、各人が自分で内容を埋め合わせて世界観とする。世界観の内容は、果てしなく展開が可能である。自己の世界観に基づいて現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主となる。
日本人には、時制がなく、意思がなく、世界観がなく、批判精神がない。だから、つかみどころのない人間である。

>残念ながら私たち日本人は経済成長の勝利=豊かさの実現と引き換えに、自治共同体を守るという志を失い、西洋に変わる社会モデルを日本から発信するという大志を失った。

日本人には世界観が無いので、マスター・プラン、グランドデザインのような内容は、発信できませんね。

>日本人の言語能力再生のヒントはそこにある。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解すると良いですね。時制を使って非現実 (考え) の内容を表現するようにいたしましょう。さすれば、自己の世界観と意思の内容を表明できるようになり、相手から信頼を得る人間になるでしょう。英米人は、日本語を話しても、その弊害により閉塞状態に陥ることはありません。考え方は、それ以外にもあるからです。我々も、彼らのやり方を学びましょう。


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序列権威

2019-08-20 09:39:48 | 社会

>戦前の家父長制下では、家長は黙ってそこにいるだけで、役割を果たすことができた。

わが国は、伝統的な序列制度の国ですからね。

>たとえ中身がすかすかでも、黙ってそこにいて、定型的に家父長的なことを言っていれば、それなりの威厳があった。

そうですね。床の間の置物か、張子の虎のようなものですね。

>ところが、民主的な家庭ではもう家長の威信という制度的な支えがありません。>父親は正味の人間的な力によって家族を取りまとめ、その敬意を集めなければならない。

各人に、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.

>でも、手持ちの人間的実力だけで家族の敬意を集めることができるような父親なんか、実はほとんど存在しなかった。

わが国は、伝統的な無哲学・能天気の国ですからね。

>家父長制の「鎧」を剥ぎ取られて、剥き出しになった日本の父親はあまりに幼児的で、あまりに非力だったことがわかった。  

無哲学・能天気な日本人は、子供のようなものですからね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
 
> 同じことは学校でも起きました。 >上に立って威張っていた教師たちの「正味の人間的実力」を測ったら、人の上に立つほどの実力がないということがたちまち暴露されてしまった。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。だから、指導力がない。
意思 (will) は、未来時制の文章内容である。だが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。

>それが60年代末からの全国学園紛争の文明史的な意味だったと僕は思います。

あれは、無哲学・能天気の嵐のようなものでしたね。

>学生たちから「あなたたちは教壇で偉そうに説教を垂れているけれど、個人としてどれほどの人間なのか? 平場で勝負しようじゃないか」と言われた大学教師のほとんどが、腰砕けになってしまった。>象牙の塔の権威がそれでがらがらと崩れてしまった。

これは、序列権威の崩壊ですね。それまでは、日本人は、序列を見れば則ち権威であると盲信していました。

> 家庭と学校を民主化しようとした四半世紀の努力の果てに、僕たちは民主主義を徹底させてみたら、民主主義的な組織はもたないということを暴露してしまった。

それはそうでしょうね。無哲学・能天気では、民主的な組織はもたないですね。後は、衆愚政治しか、残っていない。

>そうやって「戦後民主主義の申し子」であった僕たちの世代が戦後民主主義の息の根を止めてしまった。

残念なことですね。これが、我々日本人の現実直視の動機になると良いのですがね。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話が分かる為には、文法に従って文章内容を理解しなければならない。だが、日本人は、この作業をしていない。だから、無哲学・能天気のままでいる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章になる。時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容を表すことができる。初めはどの世界も白紙の状態であるが、それは各人にとって気になることである。だから、各人が白紙の内容を自分自身で埋めて行く。これが、世界観 (world view) である。世界観を基にして現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を表したことになる。英語には、時制がある。英米人には、世界観 (哲学) がある。だから、批判精神もある。日本人はその逆で、時制もなく、世界観もなく、批判精神もない。だから、つかみどころのない人間になっている。これでは、尊敬されるはずもない。’民、信無くば立たず’ である。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解しなくてはならない。そして、これを応用すれば、我々は未来社会の内容を明らかにすることも可能になり、その建設に確たる意思を示すことも可能になります。我々の進むべき道の内容に多くの賛同者を得て人類の進歩に大きな貢献をすることも可能になります。
英米人は、日本語で話をしていても、日本語の閉塞感に襲われることがありません。日本語以外にも、考え方があるからです。ですから、自己主張ができます。我々も、彼らを見習うべきでしょうね。


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学校と劣等感

2019-08-20 06:30:19 | 文化

>日本の学校では何かと子供の出来ないことや不得意な部分を指摘し、児童生徒に劣等感を植え付けるということが非常に得意です。

そうですね。褒めて教育することは少ないですね。

>しかし、そもそもとして学校の授業自体が殆ど役に立たないようなことを繰り返しているのですから、学校で劣等感などを根付かせる意味など存在しません。

自己慶賀を発して舞い上がるのを防ぐためでしょう。

> 何よりもまず人は1人1人違いが存在し、適性や向き不向きなども全て違って当たり前という思考が出来ないのが学校関係者の特徴でしょう。

そうですね。学校関係者は、同次元序列の判定者ですからね。個性を伸ばす教育は、無理でしょうね。

> 「出来ること」ばかりの人間など存在しない

そうですね。それは、全知全能の神様ばかりですね。

>例えばですが、野球選手で有名なイチロー(鈴木一郎)氏がいらっしゃいます。> 野球の世界で突出した能力・結果を出したあの方は、パソコンのプログラミングなどが得意でしょうか? > 高校・大学課程などの複雑な方程式を熟知しているのでしょうか。 >・・・恐らくというよりも、ほぼ間違いなく出来ないはずです。 >もしかするとですが、平均的な労働者扱いされるはずの一般会社員も出来ないというかもしれません。 >ですが、だからと言ってイチロー氏を駄目な奴扱いする人間など存在するとは私は思えません。

そうですね。上手な技を伸ばすと、得意な人生が得られますね。

>他にも、アインシュタインなどは数学分野において突出した才能を発揮した天才ですが、数学以外の教科は殆ど出来なかったと言い伝えられています。 >しかし、アインシュタインを数学以外何もできない無能呼ばわりする人間などいないでしょう?

そうですね。上手な技を伸ばすと、得意な人生が得られますね。

>そうした能力のある人々はできない分野が沢山あっても騒がないのに、なぜ小中学校などの児童生徒らが出来ない科目や不得意なことがあるといつも騒いでいるのでしょうか。

それは、児童生徒らは同次元序列の競争の真っ最中だからでしょう。同次元の発想により、個性は抑えられています。

> 人は生まれながらにして、人生の目的も違えば授かった能力も何もかも違うのが普通なのです。> 万人に平等な教育を施しても、すべての人が同じ結果・能力を出せるはずがありません。

そうですね。その ‘ばらつき’ は、個性の存在を示していますね。

> 出来ないことばかりを粗探しして子供に劣等感を植え付けることに大部分の学校関係者らは躍起になっています。

個性的な才能を伸ばすことは、公平な教育とは考えられないのでしょう。

>でも、それは管理する側の都合の良い思い上がりです。

わが国は、序列の国ですからね。学内で人間の序列が形成できれば、それで教育の目的は達成されたことになりますね。

>人間を機械のパーツの1つのような感覚で見ているから、学校の中で不得意なことや出来ないことを子供に強制し身につけさせるという発想になるのです。

強制は、欠陥製品の撲滅のように考えられているのかもしれませんね。

>それを言うならば、管理している側の教師たちだって万能な人間などいません。 >出来ないことや知らない分野だって教育関係者自身が山ほど抱えているのは誰が考えてもわかるはずでしょう。

そうですね。誰にでも不得意なことはありますね。

>つまらない授業やどうでもいいテストの点などで児童生徒らに圧力をかけて、個人の能力や才能が開花するのでしょうか。>学校という空間で劣等感を植え付ける政府の教育というものを見直すべきです。

そうですね。現在の教育には、あら捜しのような面がありますね。上手は上位、下手は下位。’できない、できない’ と声を掛けるのは、’下におれ、下におれ’ の封建時代を思い出しますね。自己実現も何のその。封建時代へ逆コースですね。

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