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アメリカの言い分

2019-08-24 17:17:03 | 政治

>◆法的な根拠を欠くアメリカの言い分  >WGIPの作ったマスコミ向け禁止条項を批判することはすべて正当、と書いたがなぜだろうか。 >まず事前検閲は、ポツダム覚書第七項や合衆国憲法修正第一条に違反し、アメリカ自らのでっち上げた日本国憲法にも違反するものであり、自由の中でもとびぬけて大切な言論の自由を奪うものだから当然許されざるものである。

戦いに勝利してから自己主張すると、効果がありますね。

>広島と長崎への原爆や日本中の都市に対する無差別爆撃が、人道上の罪であることは言を俟たないが、一九〇七年に結ばれたハーグ条約の第二十二条(無差別の害敵手段を使用してはならない)や第二十五条(防守されていない都市、集落、住宅、建物はいかな手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず)にも違反している。 >不法行為である。

そうですね。わが国も、自国に対する無差別爆撃を許していたのですかね。

> 新憲法や教育基本法を押しつけ、日本のエリートを壊滅させるべく旧制中学、旧制高校を廃止したのも、「占領者は現地の制度や法令を変えてはならない」という趣旨のハーグ条約四十三条に反している。

お陰様で、わが国の教育改革ができたのですね。教育の機会均等が実現しました。

>ハーグ条約に関して付け加えると、アメリカが真珠湾奇襲を「恥ずべき行為」と今だに口汚く糾弾する唯一の根拠は、開戦前の宣戦布告を義務づけたハーグ条約なのである。 >ハーグ条約以前は、当のアメリカを含めどの国も、戦争を奇襲から始めていた。 >ハーグ条約以降でさえ、アメリカは一九二ハ年の対ドミニカ戦争で、宣戦布告なしに奇襲占領している。 >第二次大戦でドイツがポーランドやソ連に侵攻した時も奇襲だった。 >ハーグ条約における宣戦布告条項は、単に開戦儀礼について言っているもので、誰も重要と思っていなかったのである。 >現に真珠湾攻撃より先に、日本軍はイギリス領マレー半島への上陸作戦を敢行したが、イギリスは宣戦布告のあるなしなど問題にもしなかった。

本当に奇襲ばやりでしたね。

>ルーズベルト大統領だけが「恥辱」とか「破廉恥」などと激昂して見せたのは、モンロー主義による厭戦気分に浸るアメリカ国民を煽動し、ヨーロッパ戦線への参戦を決意させるためだった。

そうですね。ルーズベルト大統領には、彼だけの深い考えがありましたね。

> 国を愛する心の擁護と育成は世界中どこでも行っていることである。>しなければいけないことでもある。 >家族愛、郷土愛、祖国愛、この三つの愛が健全に育ってはじめて最も崇高な人類愛を持つことができるからである。>三つの愛なしの人類愛は砂上の楼閣にすぎない。

勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。 (ヘルマン・ゲーリング)  

>WGIPの定めた禁止条項のうち、一つを除いてどれも不当であることを示した。>残るのは、東京裁判への批判が不当であるかという問題だ。 >第二次大戦におけるドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ裁判では、ドイツの法曹関係者も裁く側に参加していたが、この東京裁判では日本側は参加を許されなかった。>「勝者の裁き」と言われる所以である。

日本人は、独自に裁判をすればよかったですね。そうすれば、日本人は、’勝者の裁き’ に甘んじたことにはならないでしょう。とかく、この世は、無責任。

>また、原爆をはじめとする連合国側の戦争犯罪を不問にしたり、「平和に対する罪」という終戦後に考え出された罪を遡って適用した。

‘力は正義’ ですからね。Might is right. 戦に負けて、自ら不義を証明したのでは、話になりませんね。

>証人に偽証罪を問わなかったから、南京での二十万人虐殺などという主張が確たる証拠なしにとび出した。>事件の一カ月後の国際連盟で、中国代表の顧維鈞(こいきん)が日本非難のため、日本軍による二万人の虐殺を主張して連盟から否定されたものが、八年余りを経て犠牲者が十倍となって再登場したのである。>今ではさらに増え、三十万人以上と当時の南京の人口を超えてしまっている。>確たる証拠は今もない。

残念なことですね。’弱り目に祟り目’ ですね。

> 「日本は挑発挑戦され自衛のために起った」というローガン弁護人のものをはじめ、弁護側の弁明の大部分が却下されたことも法の下の平等を欠く。>この辺りは小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫)に群しい。>まったく一方的で裁判とはとても呼べないものである。

議論で決着できるものなら、わざわざ戦争までやることはないですからね。双方ともに、相手を力でねじ伏せるために戦争をしたのですからね。

>当時から現代に至るまで、ほとんどの国際法専門家がこの裁判を否定的に見ているのは当然である。>即ち、この裁判はまったく不当なもので単なる復習劇と言って過言でない。

復讐劇で勝者側が溜飲を下げるのは、珍しいことではありませんね。

> 裁判自体が噴飯物というのは明らかだが、それを証明しただけで物事が終るわけではない。

証明で片付くものなら、何も大騒ぎをすることはない。

>罪状が、日本指導者二十八名について、文明の名によって世界征服の責任を裁く、というものだったからである。>二十八名は、通常の戦争犯罪に加え、平和に対する罪で起訴された。>すなわち日本が侵略戦争を起こしたという非難だったからだ。

侵略戦争は、良くないですね。

> 日本の犯した一方的侵略戦争、というのがもし真実であったら、東京裁判にとどまらず、終戦後のアメリカによるWGIPをはじめとするありとあらゆる傍若無人な振舞い、度重なるハーグ条約違反は、極悪国家日本を懲らしめその存在を全否定するという、正当な行為における勇み足ほどのものになってしまう。

小異を残して、大同につく。(求大同、存小異) 指導力は、勝者の側にある。

>日本が戦争青任のすべてを背負うほどの非人道的行為に走ったのかどうかは避けて通れない大問題である。

意思決定をする国には、その責任がある。

>ここをきちんと抑えなければならない。>まず、罪状にある「世界征服の責任」である。>有史以来、この日本に、時折のファナティックな夢想家を除き、世界征服のごとき気宇壮大な構想を持った個人あるいは団体はあったであろうか。

ありませんね。日本人は、無哲学・能天気で世界観がない。だから、世界征服への志もない。

>日中戦争の頃から、八紘一宇という言葉はよく用いられたからウェッブ裁判長は当初、これが世界征服へ向けた合言葉と信じていたらしい。>しかしこの意味は、世界は兄弟達の住む一つの家のようなものであるという、神武天皇建国以来の日本人の道徳であり平和思想である。

そうですね。その平和思想が海外進出の掛け声に使われていました。気分・雰囲気によるものか。

>日中戦争の頃からしきりに用いられねこの言葉の具体的内容は、昭和十五年の「基本国策要綱」にあるように、世界平和の確立を目指し、まずは日満支を核とした大東亜共栄圏を建殺しようというものである。

それは、杜撰な計画でしょうね。海外進出はあっても、成功の見込みはまったくないものでしたね。

>裁判では清瀬一郎弁護人がこれをきちんと主張したから、結局はそのまま認められた。

良かったですね。


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扇動

2019-08-24 04:36:39 | 政治

>99459 戦時中におけるマスコミの国民支配  >平野貴紀 ( 24 エンジニア ) 05/10/20 PM10 【印刷用へ】
>マスコミのごまかし報道や大衆意識誘導報道は今に始まったことではない。

そうですね。

>大手出版社であるS社は、太平洋戦争当時の娯楽雑誌「日の出」にて戦時中にさんざん大衆を扇動しておいて、戦後素知らぬ顔で出版を続けている。

身変りの早さは、さすが大手出版社ですね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>「日の出」は巻頭言で「幾多の試練と難関は、来らん年と共にいよいよ加重されるであらうが、国民の決意と覚悟は既に出来てゐる」「日本男子の生命を軽んずるのは、死ぬことすなはち生きる事であるからである。>大君のために死ぬことは、永遠に生きる事だ。 >この自覚を持ち得ると否とが、日本国民であると否との相違でなければならぬ」といった調子の扇動を毎号繰り返していた。

‘日の出’ は、序列信仰に傾倒していましたね。

>ここで、「国民の決意と覚悟は既に出来てゐる」とはいったい誰が言ったのか?

それは、’日の出’ が言ったのでしょう。それは、’日の出’ の責任者の忖度 (推察) ではありませんか。忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、国民には、何の責任もありませんね。

>雑誌の編集者が全国民の代表であるかのような意識は、どこに生じたものなのか? >傲慢かつ無礼きわまりないことである。

‘日の出’ の編集長は、’日の出’ の責任者ですからね。忖度をする人は、現実直視をしていない。歌詠みのようなもので、議論の対象にはなりませんね。

>さらに読者が、編集者から命令されなければならない理由は何であるのか?といった疑問が出てくる。

‘日の出’ の読者は、’日の出’ の編集者からの命令を待ち望んでいますね。日本人は、無哲学・能天気ですから、頭の中は空っぽです。思考停止に陥っているので、他人に教えを乞うて自己の空白を埋める必要がありますね。

>要するに、編集者たちは読者を馬鹿にし、劣等者として見下していたのである。

その通りですね。読者は、暗記する内容を求めているのです。老師に教えを乞う弟子のようなものでしょう。

>このようなくだらない雑誌など読まなければいいではないかと思うのだが、どうも他に収束先がなかったらしい。+

そうですね。読者は、自分が受け売りをする内容を探しているのですね。

>他に手軽な娯楽を持たない大衆は、唯一の慰安を娯楽雑誌に求める以外になかった。>そして大衆の弱点はそこにあった>娯楽雑誌の編集者は、その弱みにつけ込んだのである。 

そうですね。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章により表現される。その内容は、それぞれに独立している非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示すことができる。その内容は、世界観 (world view) と呼ばれるものである。その内容は、初めは誰もが白紙の状態である。白紙の状態は、誰しも気になることである。だから、人間は、’考える人’ になる。各人は、自己の世界観の内容をすこしずつ補ってゆくことになる。これは、哲学 (非現実) の内容である。だから、’各人に哲学は必要である’ といわれている。Everyone needs a philosophy. 自己の哲学の内容を基準にとってげな実の内容を批判すれば、その人は批判精神を表したことになる。思春期になると言語能力が著しく発達するので、英米人は大学に入学して、哲学を学ぶ。そして、教養人に変身する。
英語には時制があって、英米人には世界観がある。だから、彼らには批判精神がある。議論が出来る。日本語には時制がなくて、日本人には世界観がない。だから、我々には批判精神がなく、議論が出来ない。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>特に収束すべきものもない今、マスコミによる流行(情報操作)などに踊らされている現在も同様の手口が用いられている。

とにかく、人民は思考停止しているのですから、マスコミに踊らされるのが最先端なのでしょうね。

>また当時における階級による情報量の違いも大きな要因であると思われる。>ほとんど情報の入ってこない一般の国民が、「八紘一宇」や「聖戦」思想を信じ込まされたのは事実である。

修身の授業で、徳目の暗記をするようなものですね。日本人は、このやり方に慣れていますね。早い者勝ちですね。

>しかし、膨大な量の情報が飛び交っている現代においてさえ、一般の国民には事実の情報が流されているとは限らず、予めマスコミによって操作された情報が流されている。
>そのため、だまされ、ごまかされ、洗脳されていく。

日本人には、意思がない。自主性がない。生徒に、自主性を持たせずに押し込むように教えることが通例になっていますね。

>昭和20年11月の復刊第1号の編集後記には「宿命的ともいふべき国家機能の枠内にあつて、我らは相共に必勝を信じ、雑誌奉公の一念に邁進して来たのであつたが、・・・」とあるが、「日の出」の編集後記は、戦時中からしばしば「我ら」という表現を用いている。
>だがまたしてもここで「我ら」とは、いったい誰々のことなのか?

普通は、’日の出’ の編集関係者の事でしょうね。

>「S社」とか「編集部」とかといった意味なのか?全国民なのか?きわめて曖昧である。

そうですね。曖昧ですね。日本語の発想の特徴でしょうね。

>これは「我ら」と記して国民を仲間に引きずり込むマスコミお得意の常套手段である。>これを聞いた国民はみんなもそうなのか、と思ってしまう。

そうかもしれませんね。日本人の判断の仕方の特徴でしょうね。

> また、第2号の編集後記では「印刷製本を完了しながらも発行の運びに至らなかつたことは、読者諸賢にただただ衷心よりお詫び申上げる次第である」と、「日の出」が読者にわびた唯一の言葉ではあるが、この文章は謝罪すべき問題をすりかえ、どうでもいい問題について謝罪してみせる姑息で卑劣な小細工であり、ごまかしそのものである。

そうですね。発行されなかった理由が不明ですね。

>このようなごまかしは今でも厳然と続いている。

日本の高文脈文化の特徴かもしれませんね。我々も、ドイツのような低文脈文化の特徴を理解する必要があるのではないでしょうか。

(略)



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