聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/21 第一サムエル記1章「ハンナのいのり」こども聖書㊱

2021-11-20 12:33:00 | こども聖書
2021/11/21 第一サムエル記1章「ハンナのいのり」こども聖書㊱

 今日から「サムエル記」に入ります。第一と第二、二部に分かれて、全部で54章。実は続きの「列王記」の第一と第二も、元々はサムエル記とセットだったので、全部で101章、245頁にもなる、壮大なイスラエルの歴史が描かれます。時代にして、七百年にもわたる歴史には、実に様々なことが起こります。でもその最初に出て来るのは、今日のハンナという女性。夫はいても子どもがいませんでした。子どもがいないことは今よりもずっと辛く、跡取りを産めない、社会的に肩身の狭いことでした。

10ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。11そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

 せっかく子どもを授かっても、その子を主にお返ししてしまうなら元も子もないじゃないでしょうか。ハンナにとって、子を授かれない以上に、神が自分の苦しみをご覧になっているだろうか、私を心に留めて、忘れずにいるんだろうか、という深い疑いがあったのでしょうか。ハンナは泣きながら祈っていました。泣くほど辛い。でも何を祈っているかは恥ずかしくて、誰にも聞かれたくなかった。唇だけが動いて、声は出さない祈りでした。それを見た祭司エリは、酔っ払った女だと思ってしまいます。

14エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 祈りは、普通、声に出すものだったようです。声に出さない黙祷というのは、聖書ではこのハンナの祈りだけです。皆さんは、声に出して祈っていますか。祈りを声に出すのと、どうしても人に聴かれたくない時は別にして、普段は声に出して「神さま」と祈るのとでは、大きく違います。そして、声に出す方が祈りの幸いを体感できます。それが聖書の祈り方なのです。でも、この時のハンナはそれさえ出来ませんでした。

15ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、心を注ぎ出していたのです。16このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」
17エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

 この言葉を聴いて、ハンナは帰って行きます。主の前で祈ったからか、祭司の言葉で元気をもらったか、不思議にハンナの顔は変わり、涙がなくなっていました。

20年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

 本当に嬉しかったでしょうね。サムエルとは神(エル)と「聴く(シュマー)」を合わせた名前です。私の願いを、神が聴いてくださった、という喜びが込められています。そして、サムエルが乳離れをするまで、一緒に過ごして大切に大切に育てました。一年か二年でしょうか、そうしてサムエルが乳離れしたら、ハンナは遂に約束通り、まだ幼いサムエルを、たくさんの捧げ物と一緒にあの祭司のいた場所に連れて行きました。

26ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。27この子のことも、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。28それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」
こうして彼らはそこで主を礼拝した。

 こうして、主がハンナの祈りに答えてくださった印として、サムエルが祭司の家に仕え、大きくなっていきます。お母さんハンナはとてもさびしかったと思いますが、決してサムエルと別れたのではありません。その後も、毎年サムエルを訪ねています。

2:19彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。

 そして、祭司エリも神さまも、ハンナたちを祝福して送り出したのです。



 今の私たちには、幼い子どもと別れるようなことをお母さんがするというのは、よく分からない感覚です。でも、この時のハンナはそれをしました。あの泣いて、声も出せずに祈って、酔っ払っているとたしなめられたハンナが、主に授けられ、また主に献げられた子どもサムエル。そこからサムエル記が始まります。サムエルはやがてイスラエルを導く指導者になります。神さまのなさることは、いつも不思議で、人間の常識や予想を超えています。そして、それこそサムエル記の、そして、サムエル記だけでなく、聖書全体の大事なメッセージです。サムエル記2章には、ハンナの長い祈りが記されています。

2:1ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。…4勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。5満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

 ここまでのイサクやヤコブ、サムソンも、神の憐れみで誕生した人々でした。人が無力と蔑む所に神は働いて、人の思い上がりを砕かれます。
 何より、このハンナの歌をなぞった歌が、クリスマスの「マリアの賛歌」です。ルカの福音書1章46~55節。

私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をたたえます。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます。
主はその御腕で力強いわざを行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
権力のある者を王位から引き降ろし、 
低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
主はあわれみを忘れずに、
そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
私たちの父祖たちに語られたとおり、 
アブラハムとその子孫に対する あわれみを いつまでも忘れずに。

 救い主が乙女マリアの胎に宿ったこと、貧しい田舎者となり、罪人や卑しい人の友となったこと、最低の殺され方、十字架の死が、私たちの救いの希望となったこと。本当に神は、低い者を引き上げ、小さな者を通して尊いことをなさるお方です。
 子宝とか、能力や力があるとか、すべては神からの贈り物です。それがない人も神の前には貴いことに変わりありません。それを忘れやすい人間は、神が低い人と強い人を逆転される業を通して、自分たちが神ではなく、神が私たちを、すべての人を生かし、愛しておられることに気づかされるのです。
 だからハンナが、神を褒め称えて子を献げたように、私たちも神の恵みの力を信頼しましょう。

「主よ、ハンナに応えられたあなたが、今も世界を治めて導いておられます。小さな人、出来ない人、弱い人が蔑まれ、惨めな思いをさせられる社会で、あなたはその涙の祈りを聞いておられます。どうぞ、私たちにもあなたへの祈りを授けてください。あなたが聴いてくださる神であることを、私たちにも体験させ、あなたを賛美させてください」
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