聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/21 マタイ伝26章26~30節「パンとぶどうの約束」

2021-11-20 12:33:35 | マタイの福音書講解
2021/11/21 マタイ伝26章26~30節「パンとぶどうの約束」

 主イエスが十字架の前夜、「最後の晩餐」の席で、パンと杯を与えた言葉が書かれています。このパンと杯の記念として、教会は「聖餐式(主の聖晩餐)」を、二千年、形は違っても、毎月や毎週、毎日、繰り返しています。それだけに、到底語りきれない、豊かな内容の箇所です。三つのことから、この主の招きに集まり続ける教会、私たちの原点に立ち戻る恵みを戴きます。

 まず、ここにはイエスご自身の強い思いがあります。特にマタイは、弟子たちが食べたり飲んだりしたかどうかは記さずに、ここで主イエスの振る舞いと言葉に絞っています[1]。

26…イエスはパンを取り、…言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

 これは過越祭の食事で、種なしパンや苦菜や四回の杯を回し、合間にこの過越の由来を語る決まりの席でした[2]。そこで、種なしパンを取って、裂いて、ここまでは普通でしたが、突然

「取れ、食べよ、これはわたしのからだです」

とイエスが仰います。これは
「取れ、食べよ」
という非常に珍しく強い言い回しです[3]。常ならない熱い口調です。弟子たちは面食らったでしょうか。彼らはまだイエスがまもなく捕らえられることも、その意味も分かっていません。それでもイエスはその弟子たちに、強い言葉で、裂いたパンに託して、ご自分を与えて、取って食べなさい、これはわたしの体だと仰るのです。

 「これはわたしのからだ」とはどういうことか、本当に聖餐のパンは主の体になり、恭しくなるとか、いやこれは象徴的に過ぎないとか、諸説あります[4]。しかし何より大事なのは、このパンに託して、主イエスが私たちにご自分を与えられた、強い思いで今もご自分を与えてくださっている、ということです。私たちがその意味が分かっていなくても、今は聖餐を行うことが出来ないとしても、それでもイエスが私たちに強い思いでご自分を与えてくださり、本当に親しい交わりの中に入れてくださる。この熱い、一方的な恵みが聖餐には込められています。

 その主が下さる親しい交わりとは、どんなものか。それはここで「契約」と言われます。

27…「みな、この杯から飲みなさい。28これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」[5]

 イエスはここで、杯に託して、ご自分の血が流されることを予告しています。この過越祭は、かつてイスラエルの民がエジプトから救い出される時、小羊を屠って、その血を家の門に塗ったことを記念する祭りでした。門に小羊の血を塗った家は、死を免れて、救い出されたのです。イエスは、その過越に重ねて、多くの人に罪の赦しを与えるために血を流される、本当の過越の小羊です[6]。
 それとともに、もう一つ、出エジプト記24章8節の言葉をもじっています。

8モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」

 これは過越から五〇日の旅をして[7]、主がイスラエルの民に契約を与え、新しい生き方を下さった時、契約締結の際の言葉です。指導者モーセは、献身を表す「全焼の生け贄」と、神との平和の交わりを表す「交わりの生け贄」を献げて、その血の半分を民に振りかけました[8]。それは、主なる神とあなたがたの「契約」、つまり、主があなたがたの神であり、あなたがたは神の民としての新しくされた生き方を生きる、という関係の宣言でした[9]。
 イエスはここで、あのモーセの言葉を下敷きにして、杯の宣言をしています。つまり、イエスの十字架は、過越の小羊(罪の赦し)の生け贄と、五〇日後の「契約の血」も両方含めた、一つの生け贄です[10]。罪の赦しに基づいて、神からの契約の民として新しく歩ませる「血」なのです。聖餐は、主の血が、あらゆる負債の赦しと、神の民とされた新しい生を与えたことの確証なのです。

 最後に、

29わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで[11]、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。[12]

 将来、御国で私たちがともに祝う日を宣言しています。これも弟子たちにはピンと来なかったでしょう。この時、主自ら裂いて与えられたパンと杯を受け取っても、弟子たちは生まれ変わったように強くされはしませんでした。彼らは主の心に鈍感で、まもなくイエスが逮捕されると、散り散りバラバラになります。
 今も、教会が聖餐を執り行い、私たちがパンと杯をいただいても、自動的に強い信者になるわけではありません。パンやぶどうそのものや、儀式自体に機械的な・魔術的な力はないのです。あるのは、主イエスの人格的な、恵みの力なのですね。躓く弟子たち、迷ってしまう弟子たち、まだ罪も弱さもある私たちを主イエスはご存じです。ご存じの上で、だからこそご自分の命を十字架に与えられました。私たちのために、ご自分を裂かれました。それは、私たちと神との関係だけでなく、私たちお互いをも一つの主にあって、一つのパンを分け合い[13]、一つの杯からともに飲む、一つ主の民として結び合わせます。
 今はまだ弱さを見せて、離れたり躓いたりしながら、何度も何度も主の赦しに立ち帰りながら、歩みを続ける。そして、やがて父の御国でともに主と新しく祝う時に迎え入れられる-そういう約束に、聖餐を通して立ち戻るのが教会なのです。この招きに立ち戻り、この主の尊い約束を今ここでも思い起こして慰められ、希望を持たされ、互いに励まし合い、支え合うのです。

 イエスが「取れ、食べよ」と強く言われる、私たちに対する熱い思いがパンと杯に込められています。このご自身を与えてくださる主の熱心に私たちは信頼するのです[14]。
 また聖餐は、神と私たちの関係が、罪の赦しに基づく新しい生き方になったことを表れです。この弟子以来、二千年してまだ続いて、世界の各地で聖餐を守り続けている大勢の人と結ばれた、一つ神の民が教会です。
 最後に、主は既に「父の御国であなたがたと新しく飲むその日」を約束されています。そこまで万事順調ではなく、悲しみも喜びもあります。聖餐の度に、希望に立ち帰り、慰められながら、祈り合っていくのです。この途上にある教会形成を願って、精一杯の最善を図りながら、主の民としての旅を続けるのです。

「私たちの主よ、あなたが聖餐を通して弟子たちに迫られた出来事を、今日も思い起こし、計り知れない深い恵みに感謝します。どうぞ私たちを、主の食卓を囲む群れとして、強めてください。特に今、食卓を囲めない喪失があり、長く顔を見ていない多くの兄弟姉妹への痛みがあります。私たちを導き、主の招きの尊い恵みと、ともに招かれた交わりの喜びを取り戻させてください。そうして、ここが、罪の赦しと、主の御国とを真実に表す場となりますように」



[1] マルコには「彼らはみなその杯から飲んだ」(14:23)があるが、マタイはイエスにフォーカス。

[2] 「当時の過越の食事が、どのような内容と順序で行われたか、正確な資料はありませんが、のちのユダヤ教文献などから推して、いろいろな儀式があったようです。 初めに、第一の杯が、祝福の言葉を伴って回されました。次に、エジプトの苦役の思い出として、苦菜がくばられました。第三に、種入れぬパン(マッツォート)とれんが色のスープ(カソーレト)と、焼いた過越の小羊と、他のいけにえの肉(カギーガー)が出されます。第四に、家長が祝福して苦菜をスープに浸して食べ、一同も食べます。第五に、第二の杯が注がれ、子供または最年少者が、この儀式の由来を質問し、家長が過越祭の意義を教えます(出エジプト記12章26~27節、13章8、14~15節)。第六に、「小ハレル」と呼ばれる詩篇一一三~一一四篇が詠唱され、賛美と祈祷ののち、第二の杯が飲み干されます。第七に、家長が手を洗い、パンをとって裂き、祝福して食べます。第八に、一同が食事を始め、第九に、家長が最後の小羊の肉切れを食べ終わると、第三の杯が回されます。そうして最後に、「大ハレル」すなわち詩篇一一五~一一八篇が詠唱され、第四の杯が回されてから、「ハレルの結び」である詩篇一二〇~一三七篇が詠唱されます。明らかに、聖餐式制定のみ言葉が語られたのは、「一同が食事をしているとき」、第八の部に属するわけです。」榊原康夫『マタイによる福音書講解 下巻』226~227ページ

[3] 私の神学校時代、卒業式の前に、当時の学長丸山忠孝がここから、「取れ、食え」と非常な強い言い方で、イエスが弟子たちにパン(に託してご自分)を与えられたこと、そこから「万軍の主の熱心がこれをする」につなげて語られた説教が忘れられません。それ以来この箇所では、イエスの熱い思いを想起するのです。

[4] 宗教改革において論じられたのも大きく聖餐論がありました。当時のカトリック教会の「化体説(けたいせつ)」は、パンとぶどう酒が、実体変化して、キリストの肉と血になる、としました。(そのため、パンはこぼさないよう、司祭が信徒の国に放り込み、ぶどう酒はもっとこぼしやすいため、信徒には与えず、司祭が一人で飲む、という実践になりました。)これを異教的と反対したプロテスタントも、ルターは「臨在説」(実体が変化するのではないが、キリストがパンの中に上にともにおられる)を唱え、ツヴィングリやアナバプテストは「象徴説」(聖餐は、キリストの記念・象徴に過ぎない)を唱えました。私たち改革派神学では、カルヴァンが唱えた「聖霊による臨在説」(パンが実体変化するのではなく、聖霊によって聖餐に主が臨在してくださる)の立場を取ります。

[5] 「契約」マタイでここのみ。

[6] マタイにおける「血」は、ここ以外は「呪い・責任」という意味が多い。23:30(こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』)、23:35(それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。)、26:28、27:4(「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」)、27:6 (祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」)、27:8(このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。)、27:24(ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」、25すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」) しかし、イエスの血は、加害者である人間への呪い・責任追及とは逆に、人の罪を赦して、覆い、神の国に着かせる、「契約の血」となるのです。「血」に、報復の断罪を予期したら、イエスの血は、報復を凌駕する赦しとなるのです。神の「報復」すなわち、御国の完成、さいわいの成就、永遠の祝福をもたらすのです。

[7] 出エジプト記19章1節「エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。」第一の月の15日に「過越」があってから、一月半です。その後、三日の聖別期間を経て、律法が与えられました。足かけ、五〇日しての律法付与は「五旬節(ペンテコステ)」の祝いとなります。

[8] この血は直前に指導者モーセが献げた「交わりの生け贄」の雄牛の血です。「全焼の生け贄」は「私たちのすべては神のものです」という献身の表れ、交わりの生け贄は神との平和、深い交わりを表します。

[9] 出エジプト記24章7節「…そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」。」 この「契約の書」は、直前の二〇~二三章で命じられた律法を書き記したものでしょう。24章4節「モーセは主のすべてのことばを書き記した。」

[10] ルカには「新しい契約」という語が明言され、エレミヤ書31章31節との関連が明らかですが、マタイは「新しい契約」という言葉は使っていません。しかし、ユダヤ人読者へ書かれたと考えられるマタイの福音書は、当然、エレミヤの「新しい契約」も踏まえているでしょう。そして、エレミヤの「新しい契約」においても、「罪の赦し」は言及されています。31:34「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

[11] 「じつは過越の食事の席上、家長が第一の杯を祝福するとき、「ヤハウェ、われらの神、ぶどうの実を造りたもうなんじは、ほむべきかな」と唱えるからです。つまり、「ぶどうの実・産物」でぶどう酒を表すのは、過越祭の儀式的術語でありました。ですからマタイは、「このぶどうの産物」とはっきり限定しているのです。それは、ルカに言わせれば「この過越の食事」のことです。 ですからイエスは、“ぶどう酒を飲むいとまもなく死ぬ”と言われたのでなく、“来年からは過越の食事をしない”と言われたのです。」榊原、232ページ

[12] 29節の原文通りの語順はこうです。「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。その日まで、あなたがたと新しく飲む時、わたしの父の御国で」

[13] 「これを裂き、弟子たちに与えて」 イエスのからだが裂かれること、弟子たちに与えられること、一人一人に違う形で、しかし一つのものの一部分として、与えられていること。私たちの形、大きさ、個性、痛みは違うが、一つ主のからだの一員であること。

[14] 「聖餐はごくごうふつうの、そして最も思い浮かべやすい神聖なふるまいです。それは、イエスについての真理です。あまりに人間的で、あまりに聖なるもの、あまりに慣れていながら、あまりに謎めいているものです。とても身近でありながら、とても意味深い。しかしこれこそ、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2・6~8参照)であったイエスの物語が示すものです。 それは、私たちに近づきたいと願われた神の物語です。すなわち、私たちの目で見えるほど、耳で聞くことができるほど、手で触れることができるほど、私たちと分離も、分裂も、距離もないほどに近づきたいと願われた神の物語です。 イエスは、私たちのための神、私たちと共におられる神、私たちの内におられる神です。イエスは、ご自身を完全に与える神、私たちのためならためらうことなく、ご自身を注ぎ尽くされる神です。イエスは、ご自分の持ち物を出し渋ったり、執着なさったりしません。持っているものすべてを与えてしまわれます。「食べなさい、飲みなさい、これはわたしの体である。これはわたしの血……これこそ、あなたがたのためのわたしである」。 このように、食卓において自分を与えたいという願いは、誰もが持ったことがあるでしょう。「食べて、飲んでください。あなたのために作ったのですから。もっといかがですか? これは、あなたに楽しんでもらうためです。これで元気になってください。そうです、どんなに私があなたを愛しているか感じるために」。私たちが願っているのは、単に食べ物を差し出すことでなく、自分自身を与えることです。「ご遠慮なくどうぞ」と私たちは言います。自分の食卓から取って食べるように友人に勧めながら、伝えたいことはこうです。「私の友でいてください。人生の道連れでいてください。私の大切な人でいてください-私の命の一部であってください-あなたに私を差し上げたい」。 聖餐において、イエスはすべてを与えます。パンは、単に私たちの食べ物になりたいという願望のしるしではありません。杯は、単に私たちの飲み物でありたい覚悟をしるすものではありません。パンとぶどう酒は、与えるときにイエスの体となり血となります。パンとはまさに、私たちに与えられたイエスの体です。ぶどう酒とは、私たちのために注がれたイエスの血です。神がイエスの内に完全に現存してくださるのと同じく、イエスは聖餐でのパンとぶどう酒のうちに完全に現存してくださいます。神は、はるか昔の遠いかなたで肉体をとっただけではないのです。聖餐を祝う今、この瞬間、私たちが一緒にテーブルを囲んでいるそのただ中でも、神は私たちの食べ物となり、飲み物となってくださいます。 神は出し惜しみなさいません。すべてを与えてくださいます。これこそが受肉の奥義です。これこそ聖餐の奥義でもあります。受肉と聖餐は、ご自身を差し出すという、計り知れない神の愛を示す二つの表現です。…」ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』109~110ページ。

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