2020/8/9 マタイ伝9章14~17節「新しい皮袋を」
先週8節までをお話しして9~13節を飛ばしました。大事でないのでなく、昨年、マタイの福音書を代表する箇所としてお話ししたのです[1]。この福音書を書いたマタイ自身が、自分とイエスとの出会いを語っています。イエスが私を招いて一緒に食事をしてくださった。その事に、マタイはイエスの福音とはどんなことなのかを込めて語った、特別な箇所でした。今日の箇所は「それから」と始まります。「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と眉をひそめられ、疑問を呈されたのが、イエスがマタイたちと食事をしていたことだったのです[2]。
この15節で
「花婿に付き添う友人たち」
とある、元々の言葉は
「新郎新婦の部屋の子ども」
です。結婚式の末席に呼ばれた、その他大勢の招待客の一人ではないのです。結婚式の新郎新婦の部屋にまで入って一緒に喜び、祝う特別な客、友人です。その客が、花婿が一緒にいる間、悲しむことが出来るだろうか。断食は、食事をする気にもなれない程の悲しみを表す行為に他なりません。当時も私たちも、断食とか、何か神の前に謙って、自分の罪を神妙に反省する行為が相応しいという発想は身についているでしょう。しかしイエスは、その神妙にしていた彼らの所にではなく、彼らが蔑んでいた取税人たちの所に来られました。断食や悔い改めを求めるためではなく、一緒に食事をしようと招くために来られました。最も近く、花婿の部屋にまで付き添う友人に準(なぞら)える程の近くに呼んでくださったのです。これは、この福音書を書いているマタイが、自分自身の事として喜んで書いている言葉です。イエスが当時の社会常識をひっくり返して、白い目で見られることも恐れず自分たちと食事をし、花婿の友人と呼ぶことも恥じなかった、その喜びを語るのです。この前後の、病気の癒やしや死んだ少女の復活の奇蹟の間に挟んで、イエスが自分を招いてくださった、すべての人を招いて、一つの食卓をともに囲ませてくださった記事を、大きな奇蹟の始まりとしてここに記しているのです。
この新しさは、イエスが来る前、旧約の時代からずっと予告されていた約束でした。人の罪、神と隔て、お互いにも傷つけ合い、裁き合う罪から、神がメシア(キリスト)を遣わして、人を解放してくださる。それが「新しい契約」と言われて、予告されていたのです。その約束を携えてこられたイエスの新しさは、古びる新奇さとは違う、古びることのない新しさです[3]。
16節で、
「真新しい布ぎれで古い衣に継ぎを当てたりはしません」
と言われます[4]。断食とか伝統とか常識を「古い衣」、破れ掛けた古着だと仰った。イエスの教えのいいとこ取りより、今までの伝統や形式からイエスの作る新しい関係に着替えた。それがキリスト者の歩みです。
17節には
「新しい葡萄酒は新しい皮袋に」
とあります。この「皮袋」は今日の礼拝案内の絵にお見せしたように、動物一頭丸ごとの皮を使った、手足の突き出た形をしています。葡萄の液は発酵力が強いのでまず樽で葡萄酒に発酵させます。それから一頭丸ごとの皮袋に入れて、持ち歩いたり売ったりするのだそうです。それでもそこで古い皮袋だと葡萄酒の力に耐えられない。山羊一頭を丸まま袋にするのです。それぐらい、葡萄の発酵力は力強いのです。[5]
この言葉が一人歩きして、ビジネスの世界でも、また今コロナで大きく世界が変わる中「新しい時代には今までのやり方から新しい方法でなきゃ」という意味で引用されています。確かに私たちも新しい生活様式、新しい礼拝形式、新しい伝道方法を探っています。大事なのは伝統よりも命だ、と確認しながら、礼拝をオンラインにしたり短くしたり、柔軟な変化に、皆さん本当によく対応してくださっています。
でも、ここで言う「新しい葡萄酒」は、コロナウイルスや、新しい生活様式の事でしょうか。いいえ、主イエスが来られた新しさ、神の憐れみが赦しと和解となって溢れて、私たちを新しくする神の国の恵み。それが「新しい葡萄酒」です。
教会はこの主イエスの恵みに立って、御言葉の骨太で柔軟な指示に従って、大胆に自由に歩んだ時もあれば、伝統や形式に囚われて変化できない失態を晒(さら)す事もありました[6]。これからも変化は続くでしょう[7]。「新しい生活様式」も直に古くなるでしょう。でも大事なのは、その時代の変化に破れない新しい皮袋(形式)を作ることではありません。(そこに囚われるなら、自分が生き延びることだけを考えたり、違う方法を否定したりする狭い考えになるでしょう。今、コロナの時代には、今後、自国主義や独裁主義・全体主義が広がることが懸念されています。そうした強権的な方法が「新しい皮袋」と正当化されることは大いにあり得ます。)
いいえ、丈夫な皮袋を作るより、中に入った溢れる葡萄酒を味わうことです[8]。廃れることないイエスの恵みに生かされることです。イエスがこの世界に来られ、私をあわれみ、赦しや和解を与え、私たちがどこかで蔑んでいる人をも新しくしてくださる。人が作るどんな形や伝統や生真面目さも収めきれないほど、主の恵みは強いのです。時代に合わせた新しい形を作る大事さ以上に、今に相応しい形を求めて世界の教会が一緒に考え、知恵を合わせ、祈りを一つにしている事実でしょう。そこに既にイエスの新しい福音は溢れています。この、イエスの教会の、多様さ、豊かさ、非常識なほどの共同体・関係性こそが、イエスご自身が作られる「新しい皮袋」です。いま、教会は、それぞれの伝統も重んじながら、もっと大事なのは今ここで主が働いておられることだと確認し合っています。神学者も信徒も、国境や人種や性別も貧富の差も乗り越えた関係を主は作り出しています。その溢れる恵みが、自分にも惜しみなく注がれたと知るからこそ、私たちは恐れず、心から悲しんで罪から恵みへと悔い改めもします。自由に柔軟に新しい生活、新しい礼拝を模索していけます。変化や喪失は悲しいし、難しいし、時として破れながらも、その破れを通してさえ、溢れる主の恵みをいただいていけるのです。教会はそういう「新しい皮袋」なのです。
「主よ。今ここに私たちを集め、世界中の方々と一つ、主の民とされています。あなたの恵み、赦し、力がなければあり得ない御業です。マタイの証しは私たちの証しです。新しい形を模索している社会で、今に必要な知恵や柔軟さもお与えください。それを生き延びるための恐れからではなく、あなたが私たちを愛し、新しくなさる、その力強い憐れみの故に、求めさせてください。自由に、大胆に、しなやかな心で、私たちをあなたの新しい恵みで満たしてください」
[1] 9章9-13節は、2019年5月26日に、「一書説教 マタイの福音書」として、9章18~26節は2016年9月25日に「それぞれの信仰を」と題して講壇交換で、それぞれお話ししています。原稿は、説教ブログから読めますので、どうぞお読みください。
[2] この質問をしたのは、「ヨハネの弟子」でした。「ヨハネ」とは3章でイエスの先駆者として登場していた洗礼者ヨハネです。イエス自身、このヨハネから洗礼を授かったのです。本来は身内、味方である関係でした。その彼らが、わざわざやってきて、「自分たちはたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言ったのです。それほど、イエスが断食もせず、取税人や罪人と飲み食いしていることは、当時の理解に苦しむことでした。しかし、このヨハネについて、11章18節19節でイエスはこんな言い方をしています。「ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、19人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」断食は、ヨハネの特徴だったと言って良いでしょう。しかし、イエスはそれをここで責めてはいません。むしろ、断食を揶揄する態度を戒めて、ヨハネの断食を認めています。しかし、そこにイエスが来られた時、取税人や罪人として蔑まれていた人、むしろ彼らこそ断食や禁欲や苦しみや恥を受けるのが相応しいと見られていた人を招いて、一緒に食事をされて、「大食いの大酒飲み」と言われるような楽しみ方をなさったのです。
[3] エレミヤ書31章「新しい契約」、イザヤ書11章1~9節、など多数。
[4] 16節の「そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです」の継ぎ切れには、欄外中に「欠けを満たすもの」とあります。マタイの福音書で繰り返す「成就する」「満たす」と訳されるプレーローマという言葉です。イエスが満たすのは、世界や私たちの生き方そのものなのです。ただ、今の生き方の問題を癒やす、壊れかけた生活につっかい棒をあてるのではなく、壊れてしまうような生き方そのものを新しくなさるのです。怪我を癒やすだけでなく、その傷跡が恥じられるような、うわべの美しさしか求めない価値観そのものを癒やされるのです。
[5] 皮袋、動物(清い動物。主に山羊)をきれいに皮を剥いで、ブドウを詰め、内部で発行させて持ち歩く、もしくはそのまま売る。発酵力が強いので、古い皮やつぎはぎの袋では裂けてしまう。それぐらい、葡萄酒の発酵力は強い。それに比するぐらい、イエスの働きはエネルギーがある。
[6] とりわけ、今この8月に思い起こさずにおれないのは、日本の教会が戦時中に、国家神道に飲み込まれ、主イエスを告白する戦いを放棄して、「大東亜戦争」の勝利を祈ってきた罪です。また、世界の教会も、民族主義やナショナリズム、経済主義とキリストへの信仰を混同し、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を正当化したり、戦争・植民地支配を食い止めようともしない「黒歴史」は、深く心に刻まれなければなりません。
[7] ポスト・コロナ、Withコロナが言われる現時点では、今までの尺度で礼拝・教会生活を図れるのか、まだ私たちに結論は出せない。生活が変わるとしても、その中で、私たちは主イエスに希望を起きつつ、今はまだ花婿が取り去られているような時期で、断食もするような思いも持ちつつ、主イエスのなさる、命の力みなぎる御業を待ち望んでいく。具体論は、これから試行錯誤していくことでしょう。
[8] 当然、ここでも思い浮かぶのは、葡萄酒の杯が差し出される「主の聖晩餐」です。パンと杯において示された、ともに食事をする、というイエスの御業が、ここにも表されている。私たちは今もその喜びを、教会において、主の聖晩餐において、礼拝や日々の食事において味わうのだ。
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