2016/06/12 ハイデルベルグ信仰問答18「救いの魅力」ローマ8章1-4節
今から二千年ほど前、イスラエルの国に、ナザレのイエスがおられました。イエスは神の国を説いて周り、当時の社会では落ちこぼれと見られていた多くの人にも、神の国は等しく与えられることを教えてくださいました。大勢の群衆がイエスの周りに集まり、その中から一二人のお弟子が選ばれました。彼らはみんな、イエスが大好きだったに違いありません。一緒にご飯を食べ、旅をし、そして、当時の社会の色々な問題も、このイエスが解決して下さるはずだと期待していたのです。でも、彼らはそんなに側にいて、イエスを慕っていたのに、イエスがどなたであるのかには気づいていませんでした。イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたとき、そこからようやく、イエスが神の子である事、世界の王である事、私たちのために世界に来られた驚くべきお方であることに、やっと気づいていったのですね。
彼らはイエスを愛していました。でも、理解できないことも沢山あって、あまり突拍子もないことを言うので脇にお連れして注意した弟子もいたのですね。陰では、「大好きだけど、ちょっと変わっているよなぁ」「いや、ちょっとじゃなくてだいぶさ」なんて、軽口を叩いていたんじゃないでしょうか。でも、そのイエスが、実は世界をお造りになって治めておられる神そのお方であった。そう気づいた時にどんなに吃驚したか、想像してみたいと思うのです。
今日のハイデルベルグ信仰問答の問18も、それに近いものがあります。
問18 それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。
答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。
「ハイデルベルグ信仰問答」では最初に、私たちの唯一の慰めとは何ですか、それは、私たちが主イエスのものであることです、と言っていました。そこから、その慰めに生きるためには、まず私たちがどれほど悲惨かを知らなければなりません、ということで、今まで、回り回って、私たちの悲惨な状態を見てきたのです。私たちがどれほど心が曲がっているか、それは正しく解決して償ってもらう以外にないか、その償いが出来るのは、自分でもなく、他の人や何かでもない。神と人との間に立てる、本当の神であり、本当の人間でもある方ですよ。そういう話を積み重ねてきて、やっと話が元に戻って、今日の言葉になるのですね。ひとしきり、自分たちの悲惨や罪について見てきたけれど、でもその解決は、イエス・キリストなのですよ。それも、
…この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。
もう与えられているんだ、もう私たちはこの方のものなのだ。そういうのですね。私も皆さんも、小さい頃から聖書の話を聴いたり、長い間教会に来たりして、イエスについて聞いてきたでしょう。それでも、あの弟子たちのようにイエスが本当はどんなお方かは分かっていないかも知れないけれど、実は、イエスは、完全な救いと義とを私たちに与えて下さる方なのですね。どうしたら私たちは救われるんだろうか、自分では無理だ、他の誰かでもダメだ、神と人間の間に立って下さるなら神でもあって人間でもある方でないと、といったら、それは、もうずっと私たちのそばにおられたイエスこそそのお方ですよというのです。犯人捜しのドラマで、誰が犯人かとずっと追いかけていたら、最初からずっとお話しの中心にいた一人が真犯人だった、というオチがあります。犯人ではなくて、救い主が誰かいるんだろうか、とずっと探していたら、実は目の前にずっといたイエスだった、ということなのですね。
イエスがおられた時、そういうコミカルな場面は沢山あります。金持ちの青年が来て、どうしたら神の国に入れるでしょう、と聴きました。偉いパリサイ人のニコデモや、外国人の女が、イエスと直接話しながら、神の国はどうしたら見られるか、議論をふっかけるのです。でも真相は、目の前にいるイエスこそ、神の国の王だったのですね。実は私たちも、どうしたら救われるだろうか、自分も本当に救ってもらえるんだろうか、もっと頑張らなきゃいけないだろうか、などとあれこれ考えてしまうものですけれど、私たちのそばにイエスがおられて、私たちの「完全な救いと義」を持っておられることに気づいていない、ということがよくあるのです。ですから、自分の中でクヨクヨ悩んで不安になりそうだったら、イエスはもう私たちとともにおられて、私たちの手を握って、完全な救いを与えてくださることを思い出したいと思うのです。そして、ますますイエスが完全な救い主である事を知って、感謝し、親しく祈って、お従いしたいのです。
イエスの救いが見えないまま、私たちは自分が本当に救われるんだろうか、罪を赦されるんだろうか、とボンヤリ考えがちです。けれども、イエスは「完全な救いと義」を持っておられます。私たちがイエスから戴くのは完全な救いです。ハズレ券になるかもしれない救いのチャンスでもないし、罪が赦されるだけの取消状でもありません。私たちが、罪から神に立ち帰って、本来の人間としての生き方を取り戻して、神との本来の素晴らしい関係に生きるようにしてくださるのです。悪や罪を赦す以上に、義を与えて下さって、私たちが正しく生きるようにしてくださるのですね。胡麻菓子や言い訳や、嘘のない生き方を私たちに教えてくださるのですね。本当に私たちが人間としてのあり方を取り戻して、喜んで生きるようにしてくださる。それが、イエス・キリストの下さる「完全な救いと義」です。
今日の午後にはチャペルコンサートがありました。いつも沢山のステキな歌を聴かせてもらいます。音楽は、神が世界に下さった最高の贈り物の一つでしょう。心に響く言葉や、魂まで届くような音色、そういう音楽を生み出させてくださったり、歌ったり、神が私たちに下さったのは、決して詰まらないものではなくて、本当に魅力に溢れた世界であり、人生です。そして、多くの素晴らしい歌が、悲しみや苦しみの中で生み出されて、沢山の人を慰めているように、神の下さる救いも、思うままにならない人生の中でますます輝く救いです。
祈りが叶わなくても、思いがけない大変なことがあっても、それは神がおられないとか信仰に意味がないということではありません。どんな時にもイエスは私たちとともにおられます。禍さえ歌にするほどの魅力が、救いにはあります。
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