聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記四〇章「忘れてしまった」

2014-05-24 21:07:39 | 創世記
2014/05/25 創世記四〇章「忘れてしまった」(池戸キリスト教会講壇交換)(#508,290)

 創世記の最後四分の一は、このヨセフの生涯を辿る内容になっています。後に、エジプトの大臣になるヨセフは、兄たちの憎しみを買って奴隷として売り飛ばされ、侍従長の家で仕えていました。しかし、折角ご主人の信頼を得たのに、その妻のしつこい誘いを断った結果、無実の罪を着せられて、その家の監獄にぶち込まれていました 。けれども、そこでも主がヨセフとともにいてくださって、ヨセフは監獄の長の信任を得て、囚人たちの管理をするようになったのでした。今日の話の後、四一章1節には、

  それから二年の後、

とあります。ヨセフ30歳、ともあります 。そうすると、今日の5節の時点でヨセフは28歳ぐらい。奴隷として売られたのは17歳の話でしたから 、10年余り。故郷を離れて、言葉も文化も違うエジプトで奴隷として働かされた挙げ句、濡れ衣を着せられて監獄に入り、もう十年。でもヨセフはそこでも忠実に働き続けていました。

 ヨセフの話をご存じの方は、もうじきヨセフは監獄から出て、人生の大転換を迎えるのだ、と思って読むでしょう。また、献酌官長がヨセフの事をパロに話すのを忘れた、という23節に、じれったいような、やりきれないような思いを持ちたくなります。けれども、ヨセフにはそんな未来が待っているとは分かりませんでした。まだまだ先なのか、どんな展開があるのか、まったく分かりません。14節を見る限り、まずはこの家から出られたら、という願いが精一杯だったのでしょう。10年、主がともにいてくださって、監獄で、任された仕事をしてきました。そして、今ここに新しく二人の廷臣たちが拘留されてきて、ヨセフが世話をすることになった、それだけだったのではないでしょうか。ヨセフが彼らのことを気に掛けていた心遣いは、6節7節から窺えます。

  6朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。
  7それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と言った。

 囚人なんですから、苛ついたり不機嫌になったりなんて珍しくはなかったでしょう。苛ついて、ふて腐れてる方が普通だったはずです。でも、ヨセフのこの言葉は、彼が普段から囚人仲間の表情や心境を気遣い、少しでも明るく過ごせるようにと気を配っていたことを伺わせます 。それにはヨセフ自身が、先の見えない監獄生活でも、苛(いら)つかず、表情や心を曇らせずに過ごしていたはずです。そうしたヨセフの無心の積み重ねが、今ここで二人の廷臣からの信頼になり、夢の解き明かしに繋がっていくのでした。

 勿論、そのヨセフの思い自体、ここまで主がヨセフとともにおられて、支えてくださった思いであり、主によって鍛えられて、社会人として揉(も)まれて、成長してきた証しです。夢の解き明かしの最後に自分のことを話してくれるよう頼む時も、

 15実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。

と言うに留めています。兄たちに売られて、とか、ここの侍従長の奥様が、などと複雑な事情を洗いざらいぶちまけたら、かえって警戒されて、話が進まなくなることを考えたのでしょう。余計なことは言わず、無難な表現にした所に、ヨセフの機転が窺えます。17歳の時、兄たちの前で、恨みを買うのは目に見えている言い方で、自分の見た夢をベラベラと喋ったヨセフは、世間の裏を歩いて、賢明さを身につけていました。

 ですから、もう一人の廷臣、調理官長が自分の夢を話した時、その残酷な解き明かしをも率直に告げています。媚(こ)びたり、顔色をうかがったりせず、ストレートです。パロに罪を犯した結果が簡単に恩赦になるものではありません。まして、神がその夢を調理官長に見させられた以上は、率直にその意味を告げなければならない、と心得ていたのでしょう。そして、実際、三日目に、献酌官長はヨセフが解き明かした通りに復職してパロの手に酌を献げ、調理官長もヨセフが解き明かした通りに木に吊されたのでした。

  23ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

 この最後の言葉は、思い出さず、忘れてしまった、と諄(くど)く強調しています。いかにも意外、という風に印象づけます。献酌官長としては、パロの恩赦を、「実は夢で見て、ヘブル人の若者が解き明かしてくれた」などと言おうものなら逆鱗(げきりん)に触れかねない、と言い出しかねたのかも知れません。でも、確かに二年後、パロは自分が夢を見たからこそ、ヨセフの話に耳を貸せるのです。だとすると、この23節が「思い出さず忘れてしまった」と繰り返すのは、献酌官長を責める以上に、そこにも神が働いておられたと言うことです。献酌官長が思い出さないでくれて良かった。忘れてくれたこともまた、主の摂理だった。その時は分からなくても、御計画の中にあった。そう言いたいのだと思います 。

 人は忘れたり、罪を犯したり、薄情だったりします。糠喜びしてガッカリすることは尽きません。でもそれは、主までも私たちを忘れてしまわれた、という証拠ではありません。人が忘れても、主は私たちを覚えておられる。人は思い出さない、いや思い出したとしても余計な先回りをして却って足を引っ張ることだってある。でも、主は私たちを覚えていてくださり、私たちの最善をなしておられる 。遠回りのようでも、忘れたように思えても、実はもっと大きな最善を用意しておられる、との約束を信じさせられます。

 いいえ、主は私たちを覚えておられるだけではなく、人の夢にまで御心をお示しになるほど私たちの思いの奥深く、深層心理にまで関わられるお方で す 。ただ私たちの名誉挽回やドラマティックな人生の筋書きを用意される、なんてことではなく、私たちを深く深く取り扱われ、十年、二十年、一生を掛けて、私たちを鍛えられるお方です。甘えた坊ちゃんだったヨセフが無実を確信しながらも牢獄で、よい顔色を保ちながら仕え、他者を世話し、気遣って、でも決してご機嫌をうかがって真理を曲げることはせず、誠実に、賢明に、そして神に栄光を帰しながら語っている姿に、自分を重ねたいと思うのです。

 神に罪を犯していた私たちは、いつか必ず神の前に呼び出されて木に吊(つる)されるしかなかった者でした。でも私の代わりに、主イエスはご自身が十字架に吊(つる)されてくださいました。その尊い尊い慈しみによって、主は私たちの全生涯に、心の底にまで関わり、私たちを取り扱い、厳しいようでも最善の人生を過ごさせ、人と関わらせておられます。その意味が今は見えなくても、これから先、いつどうなるかが分からず、待たされても忘れられても、置かれたその場で、目の前の人に誠実に関わりたい。自分や他人の足りなさも主の御手の中にあることに平安を戴いて、よい顔色をいただいて歩む者でありたい、と願います。

「私たちを決して忘れたまわぬ主よ。あなた様の奇しい御計画の中、この人生を与えられています。ヨセフに託した約束を自分のものとさせていただき、私共の心の奥深くまでも取り扱われる主の御声に聞かせて戴きたく願います。失望や挫折を通しても、恵みを施してくださるあなた様を一層見上げて、待ち望み、心も顔も輝かせていただけますように」?


文末脚注

1. 4節「侍従長」とは、三七36で「パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った」とあったとおり、ポティファルのことです。
2. 創世記四一46、参照。
3. 創世記三七2、参照。
4. F・B・マイヤー、小畑進『きょうの力』(いのちのことば社、32ページ)より。
5. この時忘れていたならなおさら、二年後にはもうサッパリ忘れている可能性だってあったのに、二年後に思い出したことが奇蹟です!
6. 14節のヨセフの言葉「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください」は、新改訳欄外注にもあるように、ルカ二三42にある、主イエスの隣で十字架にかけられていた強盗の一人の台詞とかぶります。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。小畑進『創世記講録』(いのちのことば社、2003年)706ページ参照。
7. 勿論、今は、夢による啓示ではなく、聖書が私たちに与えられた啓示です。夢を神様からのメッセージかもしれない、と深読みする必要はありません。しかし、昔も今も、夢が人間の心の奥深く、無意識のレベルにまで関わっていることは変わらないのです。しかも現在の心理学では、夢を思い出すこと自体が難しく、そこにもまた心理的な(無意識の)操作が入って、正確に思い出す事自体まれであることが分かっています。

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