聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問4 「わたしは『わたしはある』という者である」出エジプト記三13-15

2014-05-18 14:55:22 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/05/18 出エジプト記三章13-15「わたしは『わたしはある』という者である」
ウェストミンスター小教理問答4


 今日から「人が神について何を信じなければならないか」という内容に入って行きます。

   問4 神(かみ)とは、どんなかたですか。
   答 神(かみ)は霊(れい)であられ、その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)です。

 神は霊であられる、というのは、神様は見えるカラダをお持ちではない、ということです。神様が目には見えないから信じない、という人には、神は霊だから見えないのがアタリマエなんだよ、と答えたらいいのです。見えるもの全てをお造りになったのが神様です。やがて必ずこの見える世界は終わりを迎えます。そして、新しい永遠の世界が始まります。その時、私たちは、永遠のカラダを戴きます。そうしたら、私たちも新しい目で、神様を見ることになります。でも、今のこのカラダは弱すぎて、神様を見るだけの力がないのです。ですから、私たちは、神様を、今、目には見えないけれども、見える世界の全てをお造りになったお方として、恐れ、礼拝し、お従いしましょう。

 そして、この見える世界は、神様の作品として、神様がどんなお方であるか、を映し出しています。特に、私たち人間は、世界を造られた神様が、その最後に、神様ご自身に似た者として造られた、「神のかたち」ですから、神様を映し出して生きるのですね。今日の答では、「存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)」とありますが、私たちが存在していること、他の動物よりも知恵や理性、そして力があることなどは、神様の形に作られている証拠なのです。また、「聖」ということでは、神様はレビ記19章2節でこう仰っています。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」。ペテロもこの言葉を第一の手紙1章15-16節で引用しています。これは言い換えると、本当に純粋な愛を持ちなさい、自分の損得とか、見返りとか、評判とかそんなことは全く気にしないで、惜しみなく生きることです。神様はそういうお方です。だから私たちを愛して下さるし、また、私たちから嫌われても文句言われても、気にせずに、私たちもまた自己中心を捨てて生きるようになるよう、一歩一歩導くことでよしとされるのですね。

 義、善、真実、も同じようなことです。正しさ、善さ、そして真実であられる。でも、その後の言葉がすごいですね。

その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)

 無限(限りがない、限界がない)。永遠(時間よりも大きなお方である)。不変(変わったり、止めたりは決してしない)。これが、この七つの言葉につくのです。つまり、その存在において無限・永遠・不変、その知恵において無限・永遠・不変、その力において無限・永遠・不変、その聖において無限・永遠・不変、その義において無限・永遠・不変、その善において無限・永遠・不変、その真実において無限・永遠・不変、ということです。私たちはどうでしょうか? 有限ですし、時間の中で生きていますし、変わってしまいますね。どれ一つとっても、神様とは違います。神様の栄光を現すとは言っても、私たちは造られた小さなものに過ぎません。ほんのちっぽけな鏡のようです。それだけでなく、自分たちに限界があるから、神様のことも小さく考えてしまいます。いくら神様でも、こんなことは分からないんではないか。神様もそろそろ飽きたり変わったり匙を投げたいんじゃないだろうか。神様も忙しくて、私のことは忘れてないだろうか。今起きているこれは、神様が善なるお方だったら、絶対に起きるはずがない。そんなふうに考えてしまいやすいのです。だからここで「無限、永遠、不変」と言い切っているのはとても大切なことです。

 さて、今日の出エジプト記の箇所は、モーセが八〇歳の時、初めて、神様の声を聴いた時の箇所です。燃えやすい、大きくもない柴の木に炎が燃えていて、いつまでも燃え尽きない、不思議な光景を見ながら、モーセは主の語りかけを聞きました。そして、モーセは神様の名前を尋ねたのです。神様とはいろいろあるけれど、何という名前の神様かと聞かれたら、何と答えたらよいですか、と聞いたのです。そして、神様は言われました。

   わたしは、『わたしはある』という者である。

 そんなことを言える人間はいません。今はいるけれども、気がついたら生きていたのであって、いないときもありました。また、ずっとここにいたいと思っても、いつかは死ななければなりません。そして、自分の顔かたちや性格、人生を好きなように決めることも出来ません。でも神様は、永遠に存在しておられ、誰からも消されたり変えられたりすることはないのです。でも、その大きな神様はこうも仰いました。
…わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた、…あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。

 私たち人間とは全く違う大いなるこの神様は、モーセに近づいてくださいました。消えそうだけれど消えない、小さな柴の中の炎を通して語りかけられました。そして、モーセをお遣わしになり、イスラエルの民に、「わたしは、あなたがたの父祖の神となった神だ」と名乗られたのです。

 神様は、私たちの言葉で表現しきれるお方ではないし、私たちの頭で理解し尽くせる程、スケールの小さな方でもありません。ここでも不十分ながらも精一杯こう言い表しているに過ぎません。でもその神が、私たちに深く深く関わって、私たちのことを知っておられ、私たちに最善をなされ、私たちを聖なる正しい者としようと語りかけ、導いていてくださいます。その最たる証しが、御子イエス様でした。人となって、私たちと同じようになり、十字架の死までも引き受けてくださった。そして、よみがえって、私たちに、ご自分を信じて従うよう招いてくださっています。

 イエス様が下さる人生は、この無限・永遠・不変の神様に支えられながら、この神様の素晴らしさを繰り返して思い知らされる人生です。どんなことがあっても、変わらない真実な神様に立ち帰って、ますます神様を賛美するようになる、本当に素晴らしい人生です。

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