2015/09/27 ウェストミンスター小教理問答79-81「満ち足りた心で」ヘブル13:5
聖書の律法というと、あれもしてはならない、これもしてはならない、という堅苦しいだけの形式的な規則だと考えていないでしょうか。今日の、第十戒はそういう私たちの思い込みを引っ繰り返すような命令です。
問79 第十戒はどれですか。
答 第十戒は「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」です。
問80 第十戒では、何が求められていますか。
答 第十戒は、隣人とその人に属するすべてのものに対して、正しい、思いやりの気持ちを持ちつつ、私たち自身の境遇に十分に満足することを求めています。
問81 第十戒では、何が禁じられていますか。
答 第十戒は、すべて、私たち自身の生活状態に満足しないことと、隣人の幸福をねたんだり、悲しむこと、また、隣人のいかなるものに対してであれ、すべて法外な欲求や愛着を抱くこと、を禁じています。
三千年以上前のイスラエルの社会ですから「男奴隷、女奴隷、牛、ろば」などと書かれています。今は、お隣の人の奴隷や家畜を持っていることはないでしょうし、だからそれを欲しがる事もないでしょう。
でも周りの人の暮らしが物凄く羨ましくなったり、友だちのゲームや服を自分も欲しくて堪らなくなったりしないでしょうか。何かに付けて「あいつはいいなぁ」「うちもこうだったらいいのになぁ」が心の中での口癖になっていないでしょうか。勿論、人のものを見て、ちょっとでも欲しいと思ったらダメだ、ということではありません。「あ、あれはいいな。ウチにも必要かな。」そう考えることがきっかけで、暮らしを少し楽にしたり気持ちよく過ごせるようにすることはありますね。でも、そこで考えて「これはなくてもいいな。あれも欲しいこれも欲しいと言っていたら切りがないから、止めておこう」。そう思う事も大切でしょう。ところが、なくてもいいものも、なければ自分が惨めな気持ちになってしまって、際限なく物を増やす、ということもありますね。実際に買わなくても、本当は「欲しいなぁ、格好良い車や、素敵なスタイル、自分とは違う暮らしが出来たらいいのに」と惨めな気持ちや、ねたましい心を強く持っていることもあるのです。それが、この第十戒で禁じられている「ほしがる」という強い思いです。イエスは仰いました。
ルカ十二15「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
「どんな貪欲にも」です。お金、財産、暮らしのもの、人の奧さんや旦那、親や子ども、見た目や健康、仕事や性格…。いろんなものが、私たちには妬みや貪欲の対象になります。そして、私たちの周りのテレビや日常会話、コマーシャルなどでは、「これを買えば幸せになれるよ」「私たちの商品はあなたの生活を変えますよ」と、上手な宣伝をして、私たちに何かを買わせようとします。裏を返せば、自分たちの生活が物足りないような気にさせて、その解決の手段として、憲法を変えるとか、強い軍隊を持つとか、人の暮らしからもぎ取ることを唆して来るのです。
でもイエスは仰いました。私たちのいのちは財産にあるのではない、と。では、私たちのいのちはどこにあるのでしょうか。それは、この十戒の序言でこうありました。
出エジプト記二〇2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
主が私たちの神となってくださいました。私たちを、何かに縛られて奴隷にされた生き方から、力強く救い出してくださって、いつまでも主の民として祝福を注ぐという契約を立ててくださいました。だから、与えられた生活を改善させたり、開拓したり、努力や精一杯生きる責任はあるのですが、人のものを羨んだり、あれもないこれもないと不平をブツブツ言いながら生きる心は捨てなければならないのです。
ヘブル十三5金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
この方が、この主だけが私たちを満たし、祝福してくださるのです。神が下さったのは、「満ち足りる心」です。それ以外のもので、自分を満たそうとしても決して上手くはいかないのです。神ならぬもので心を満たすことは出来ません。パウロは言います。
エペソ五5むさぼる者-これが偶像礼拝者です、-こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
人のモノを欲しがっている人は偶像礼拝者だ、というのです。四世紀の主教アウグスティヌスという人はこんな事を言いました。
「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。
神さまだけが私たちの心を満たせるのです。満ち足りた心をくださるのです。でも、神から離れた人間は、心の深い所で不足や渇きを持つようになってしまいました。
満たされない心を満たそうと、人のものや神さま以外の色々なもので満たそうと思っても、満たされたと思うのは一瞬だけで、決して満たせません。
本当に深い飢え渇きを、私たちの心は抱えているのです。自分でもどうしようもない、無意識の、深層心理での渇きです。ですから、「むさぼってはならない」と言われても、もうこれからは満足して生きていきます、などとは誰も言えません。
私たちが神に向いて生きる時にのみ、人のモノを欲しがって憧れる勘違いした生き方から、深い所で満たされ、感謝する生き方へと帰られる神の御業が始まります。そうです。主イエス・キリストの福音は、ただの道徳や規則ではありません。私たちの生き方の、心の、どうしようもないほど深い渇きまでも潤そうという恵みなのです。私たちが、不平や不満から自由にして、感謝をもって生きるようにならせたい。その神への信頼を土台として、生かされ、働き、必要なものを考え、モノは増やさない。人との関係でも妬んだり競争せずに、つきあえる。そんな軽やかな心で生きるようにと、十戒は私たちを招いています。
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