2017/4/23 ハ信仰問答65「パンを分け合う」使徒2章37-42節
教会でよく聴く言葉の一つに
「証し」
があります。自分の信仰の経験を、人にお話しして聞かせるのです。特に、自分がイエス・キリストを信じた経験を分かち合うことを「救いの証し」とかただの「証し」と言います。波瀾万丈な人生で劇的にキリスト教に出会ったような証しもありますし、家族が信仰を持っていて生まれる前から教会に行っていたけれど、ある時に改めてイエスに出会う体験をした、という証しもあります。人の数だけドラマがあって、そういう話を聞かせて頂くのは、いいものだなぁと毎回思います。けれども、そのような話を聞けば聞くほど、特に、ドラマチックにクリスチャンになったという話ほど、聞いている人の心には、自分もそういう劇的な体験が必要なのではないか。イエスを信じたいけれども、どうしたら信じたことになるんだろうか、という素朴な疑問も膨らんでくるのです。
前回まで、キリストの果たされた救いの業を私たちは信じるだけで頂けるのだ、とお話してきました。信仰は魂の手であって、その手を伸ばして信仰をいただくだけです。でもその信仰は、どこから来るのでしょうか。
問65 ただ信仰のみがわたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか。
答 聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確証してくださるのです。
信仰は、聖霊が起こして、確証してくださるのです、と言います。その人が頭がいいから、心がきよらかだから、そんなことは関係ないのです。三位一体の神の聖霊が、私たちの心に信仰を起こしてくださるのです。言い換えれば、信仰は聖霊から来るのです。では聖霊はどのように信仰を起こしてくださるのでしょうか。それは、
「聖なる福音の説教を通して」
です。聖なる福音の説教。それは特にこの礼拝の説教です。教会の礼拝や夕拝の説教で、キリストの福音が説き明かされる時、それを聞く人の心にキリストを信じる思いが出て来る。あるいは、自分の罪が分かって、心を砕かれ、謙虚にされます。あるいは、キリストの愛を信じたい、自分も救われたい、そういう思いが起こされます。その福音に対する「信じたい」気持ち、それ自体が、聖霊が働いてくださって初めて持つことが出来る一歩なのです。福音の説教を通して聖霊が働かれるからこそ、人の心には福音に対する興味や反応が湧くのです。あるいは、抵抗さえも、神がその人の心を動かし始めているからでしょう。説教者のお話しが分かりやすいとかしどろもどろだとかを超えて、その人のうちに聖霊が働いて、福音がその人の心に届いてくださる。だから、その福音を聞いての反応は、聖霊が起こしてくださる信仰の始まりなのです。
自分の中にある「信じたい」思い。救われたいという願い。いいえ、「こんな自分が救われるんだろうか」とか「私の罪が赦してもらえるなんて、そんなわけがない」という心さえ、聖霊のノックだと思いましょう。そういう自分の思いだけではダメで、聖霊が何かもっと特別な思いや体験や声を下さって初めて、本当に信じて救われる事が出来るに違いない、と思う必要はありません。その私たちの中に小さく始まった、ごくごく人間的な思いこそ、神が下さるかけがえのない信仰なのです。聖霊は、直接人間の心に魔法のように信仰を与えるのではありません。説教を聴き、福音に耳を傾ける中で、どうにか心が動かされてゆく、そういうプロセスで働かれるのです。今日の聖書でも、
使徒二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
ペテロの説教を聴いて心を刺された人に、パウロはそのまま、悔い改めなさい、つまり神から離れていた生き方から、神を神とする生き方に向き直りなさい。そして、バプテスマを受けなさい、と勧めますね。
「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」
というのは、それまでは聖霊は関係ない、ということではありません。彼らが
「心を刺され」
たこと自体、聖霊のお働きなのです。だから後は神に向き直って、洗礼を受ければ、聖霊が私たちのうちに住んでくださいます。そう素直に受け入れれば良いのです。
しかし、「福音の説教」とは礼拝説教に限らず、一対一で話をしながらイエスについて聞かされる場合もあるでしょう。テレビや映画で、キリストについて知ることもあるでしょう。先に言ったように「救いの証し」にはその人の数だけ違うストーリーがあるのです。そして、そういう人の「救いの証し」を通して、別の人が福音に出会うということも沢山起きるのですね。本当に、聖霊は様々な形で、私たちに語りかけ、福音の説教を聴かせてくださるのです。そこで起きる現象ではなく、どうにかして、聖書に証しされたイエスの十字架と復活、恵みによる赦しや喜びを知り、心が動かされることが大事なのです。ですから、「信じたい」と思うなら、「信じます」と応えたらよいのです。
それだけではありません。聖霊は、福音の説教を通して信仰を持たせるだけでなく、
…聖礼典の執行を通してそれを確証してくださる…
とあります。先の使徒2章でも、洗礼を受けた人々は、その後も、
使徒二42…使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
この「パンを裂き」が「主の聖晩餐」という聖礼典となりました。来週から、この「聖礼典」とはどういう事かを詳しく見ていきます。今日はさわりだけお話しします。信徒たちは、教えを学んだり聞いたり守っただけではなく、集まって、ともにパンを裂いたのです。これは、キリストが示してくださった福音のしるしでした。キリストがご自分を十字架に与えて、ご自分の肉を裂かれて、私たちに与えてくださったこと、そして私たちがお互いを与え合い、交わりをすることが「パンを裂く」というしるしです。パンを裂くたびにイエスの福音を思い出し、分かち合い、味わう。また、パンを分け合うこと、パンだけでなく証しや心や生活を分かち合うことを通して、信仰がますます確証される。それが、聖霊が私たちに働いてくださる方法なのです。
信仰は、自分で聖書を勉強さえすれば分かるとか、奇蹟や特別な体験があれば強くなるものではありません。聖霊が、説教や聖晩餐、礼拝や交わりを通して信仰を起こし、養ってくださるのです。
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