聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問66「見て、触れて、味わう」Ⅰヨハネ一1-7

2017-04-30 16:16:47 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/5/7 ハ信仰問答66「見て、触れて、味わう」Ⅰヨハネ一1-7

 私たちは「目には見えない神」を信じています。神は霊で、私たちには見る事も触る事も出来ません。これを見える形に作ってしまうと、それは「偶像」となります。見えるものがあると分かりやすいので、目には見えない神を信じて、聖書を読み、言葉を聴く、というキリスト教の信仰形式は物足りないように思われることも少なくありません。しかし、今の聖書の言葉ではハッキリとこう言われていましたね。

Ⅰヨハネ一1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 ここでいう「いのちのことば」とはイエス・キリストの事です。そのイエスを私たちは聴き、目で見て、じっと見て、手で触った、ありありとした現実だと言っています。「見えない神」とは言うのは、神がぼんやりとした捉え所のないお方だ、ということではないのです。この神こそ世界の全てをお造りになりました。見えるものも、私たちの目には見えないものもこの神なくしては存在しません。そして、神の子イエス・キリストはこの世界に人としてお生まれになり、体を持たれました。弟子達と過ごし、病人に触れ、兵士たちによって十字架に磔にされました。抽象的で観念的どころか、見えるすべての背後にある神を信じる-これ以上無いリアルな方を信じるのが私たちです。

 そして、先回から見ています「聖礼典」。これは、神が私たちのために、見て、触って、食べる事さえ出来るように、福音を味わい知らせてくださるという事を教えます。

問66 礼典とは何ですか。

答 それは、神によって制定された、目に見える聖なるしるしまた刻印であって、神は、その執行を通して福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、刻印なさるのです。その約束とは、十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が恵みによって罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる、ということです。

 「聖礼典」あるいは「礼典」は、英語でサクラメントと言います。後の問68で、礼典とは二つあって、洗礼と聖餐であると言われます。頭に水をかけるか、全身水に入るかして、罪の赦し、新しいいのちを象徴する。それが洗礼です。そして、聖餐(主の聖晩餐)ではパンを裂き、杯のワインをともにいただいて、永遠の命を象徴するのです。この洗礼と聖餐の二つが、ここで言われている「聖礼典」です。

「神によって制定された」

とあるように、人間が考え出したのではありません。主イエスが、教会に世の終わりまで守るようにと定められて、初代教会がその通りに実践していたことが何度も記されています。特にプロテスタントは、この二つだけが、主イエスによって制定されたのであり、この二つを礼典とします。そして、この二つの

「目に見える聖なるしるしまた刻印」

によって、私たちは福音の約束をよりよく理解し、刻印してもらうのです。

 「しるし」というのは標識やお知らせ、サインのことです。この先に横断歩道がありますよ、この先に建物や目的地がありますよ、と知らせてくれるのです。まだ目には見えないけれども、そこにあるものを見える形でお知らせしてくれるのがしるしです。ですから、洗礼や聖餐式は、イエスが私たちの罪を赦して新しい命を与えてくださったこと、永遠のいのちを与え、いつも養ってくださっていることを、水の洗いやパンと葡萄酒をいただくという「しるし」でハッキリ見せてくれるのです。

 「刻印」とは刻みつけられることです。見たり触ったり味わうと、私たちの体にはその記憶がもっと強く残りますね。水が冷たいとか、パンが固いとか、葡萄ジュースが喉を通っていったとか、そういう感覚で、罪の赦しやイエスの下さるいのちが、私たちの魂に刻みつけられて、もっとハッキリ分かるようになるのです。こうして、福音の約束が、私たちによりリアルに分かるようにと、イエスは聖礼典を定めてくださいました。言葉だけ、頭だけではなく、本当にキリストの福音が現実だと分かるように、聖礼典というものを備えてくださいました。それは、福音の言葉や聖書、説教が不完全で不十分だからではありません。御言葉だけでは足りないから聖礼典が必要なのではありません。むしろ、受ける私たちの鈍感さのゆえです。人間というものが、知識や情報だけで分かる存在ではなく、感覚が大きく占めている者だからです。

 神様は人間を、言葉だけのものには造られませんでした。むしろ、体をもって生きる存在に造られました。遊びたいし、美味しいものが食べたいし、見えるものに驚き、世界を楽しみ、手を動かし、汗を流して、生きるようにと造られました。そして、罪が赦されて、神の子どもとされ、福音の中で成長するというのも、頭の中だけのことではありません。私たちの食生活、仕事、健康、生活全体と関わります。そもそもこの見える世界そのものが、神の栄光を現しているのです。その中で私たちは勉強や立派な知識を増やすようにと言われているのではありません。この体での営み全てが、神の栄光を現すものとなるようにと言われているのです。そのためにも、神は私たちに、言葉だけではなく、聖礼典を下さいました。それは、まさに私たちの感覚そのものが、福音の約束に根ざすためです。そして、私たちがキリストの福音をハッキリと知り、言葉や知識に出来ないほど深くまざまざとした現実として、見、触れ、味わうのです。神は聖礼典を通して、私たちに本当にキリストとの交わりを味わい知らせてくださるのです。

 言い換えれば、決して聖礼典は、説教の補足ではありません。むしろ、説教によってキリストの恵みを知るのは、聖礼典を通してリアルな福音体験をするため、と言ったほうが良いでしょう。

 教会建築の考え方に、こういうことが言われます。礼拝堂の入口にはいつも洗礼盤を置いておく。そして、礼拝堂の真ん中には聖餐卓を置く。説教壇ではなく聖餐のテーブルです。それによって、礼拝堂に入ってくるたびに、洗礼を受け、罪が赦された事実を思い出す。心の重荷を下ろし、悔い改めて、明るい思いを持つ。そして、礼拝では中心の聖餐卓をいつも見る。そこで、主イエスが私たちをご自身の食卓に招き、永遠に迎え入れてくださることを見る。それも、自分だけではなく、集まった皆さんが、主の食卓に招かれていることを覚える。それ自体が福音です。 

 そこには、神の国の縮図があります。福音のエッセンスがあります。洗礼と聖餐式は、そのような大事なしるしであり刻印となってくれます。見て触れて体験できる素晴らしい恵みです。

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