2019/9/1 Ⅰペテロ書1章8~13節「預言者たちが語ったこと 聖書の全体像25」[1]
「預言者」。聖書には「預言者」が登場し、「預言書」が十六巻あります。この「預言」は、未来の出来事を予(あらかじ)め話した「予言」ではなく、神から預かった言葉を伝えた「預言」です[2]。聖書には将来の出来事を予告する内容の預言もありますが、それ以上に大事なのは、書かれた当時の人たちに対して、神が何を語り、何を願っているか、を聞き取ることです。そういう預言の趣旨を見失ったまま、謎めいた言葉の秘密を解き明かそうなどと企んでも見当違いなだけです。大事なのは、神が預言者を通して、人間に何を語り、どんな生き方を求めているのかを知ることで、それが今の自分たちにどう当てはまるのかが分かれば従う事、なのです。[3]
聖書の「預言者」と言っても役割は時代で違いました。最初に預言者と呼ばれるのはアブラハムで[4]、モーセや兄や姉も預言者と呼ばれます[5]。彼らは「神託を民に語る使命に専念した人」というより、神との親しい関係にいた指導者でした[6]。
時代が下って士師記の頃には、預言者の団体がいたり[7]、ダビデ王の周辺にもナタンやガド[8]といった預言者がいますが、これは地域の助言役とか聖歌隊のような楽団で、職業預言者と呼ばれます[9]。
注目したいのはその後です。活発な預言者活動が集中しています。王国が分裂し、最終的にはバビロン捕囚に至るまでの三百年に、エリヤやエリシャ、イザヤやエレミヤが活躍し、多くの預言書が書かれます。そして七十年後に戻ってきたけれども、かつての栄光とは程遠くて意気消沈する時代に、最後の預言者活動がありました。預言は、それを聴くに相応しい敬虔な時代ではなく、最も神から離れ、真っ暗だった時代に最も語られたのです。預言者の活発な活動は、神の憐れみの激しさでした。
もう一度、聖書の物語の流れを思い返してみましょう。神がこの素晴らしい世界を創造された時、神には大きなご計画がありました。人間が神との約束に従わなかった後も、神は最初からエバにもノアにもアブラハム、モーセやダビデを通して、神の良いご計画を少しずつ明らかにしてくださいました。将来、永遠の王が来ること、世界の民に祝福が及ぶこと、安心して住まう国といった幻を下さっていました。それだけでなく、その時その時に、将来の約束を垣間見るような現実の恵みも下さっていました[10]。それなのにイスラエルの民はどうしたでしょう。その約束を脇に置いて、今の生活が他の国のように豊かになることを願って、神ならぬものを礼拝して慕い求め、人の痛みを封じる社会を造ったのです。主の約束を待ち望むことを忘れ、主が語っておられた平和とは違う、自分たちの楽園を欲しがったのです。そのために不正や差別も横行しました。奴隷生活であったエジプトから救われたのに、人はその場所で人を尊厳をもって人間扱いせず、奴隷のように使う社会を造り、人が人として感じる痛みや苦しみに耳をかしません。そんな社会、神の幻とは違う支配が旧約の最後の時代が現す、人の罪の姿です。
その時、神はどうしたでしょうか。神は預言者を他の時代以上に送ってくださったのです。彼らの罪を指摘して、虐げられている人たちの叫びを神は聴いておられることを訴えました。時代時代に応じたユニークな方法で、後の時代の私たちには意味不明な表現さえ用いて、神は尚も熱く語りかけてくださいました。背信の北イスラエルにさえ、エリヤやエリシャが大きな奇跡をして語りかけました。神は、背かれても、尚も真剣であること、そして希望を用意しておられ、キリストを送ること、その備えをするようにと呼びかけ続けたのです。そうして旧約時代は終わり、四百年の沈黙の後、預言していた方、キリストが本当に来られたのです。
今日のⅠペテロ1章では、ペテロはイエス・キリストにある「栄えに満ちた喜び」を語っていました。それはイエス・キリストによって「たましいの救い」を得ているからで、
1:10この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。11彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。12彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです…。
かつての預言者たちが見る事を悲願とした言葉がついに満を持して成就して、あなたがたはキリストの救いをもう成就したものとして聞いている。そういう素晴らしい救いなのです[11]。ここで、預言者の働きを
「キリストの苦難とそれに続く栄光を証しした」
と書かれています。私たちはキリストが既に来られて、苦しみを受けた事を知っています。そこからよみがえった事と、今は神の右に座して治めおり、やがてもう一度来られて、栄光の支配を完成される事を知っています。「既に」と「やがて」の間にいます。預言者たちはどちらも「やがて」でした。ですから、本当は二つの山が重なって一つに見えるように、キリストの苦しみと支配とを語りました。私たちは「既に」と「やがて」を知っていますから、混乱していると思いますが、預言者の時代にとってはまだ「やがて」なので良いのです。かえって、それによって神がこの世界とともに苦しむ神であることが強く浮き彫りにされるのです。
預言者はその当時の社会の問題を指摘して、抑圧された人々の声を代弁します。それは罪の非難というよりも、罪のもたらす苦しみを聴き上げ、人の痛みをすくい取り、一緒に嘆いている嘆きなのです。神がこの世界の苦しみをご自身の苦しみとして叫び、悲しみ、問いかけている言葉です。ブルッゲマンという旧約学者は『預言者の想像力』という本で、預言者の働きを、嘆く力を回復することだと述べます[12]。社会の追いやられた声、封じられた悲しみを預言者は汲み取り、さらけ出して、聴き手の心に、嘆きを嘆く想像力を呼び覚まそうとしました[13]。問題を封じて、平気なふりを求めて、表面上の穏やかな社会に満足するのではなく、本当に人の心が癒やされ、慰められ、作り物でない喜びで生きる在り方を、預言者たちは神の幻として告げました。どんな理由があろうと、どんな人だろうと、神は最も小さな叫び、声にならない呻きさえ、すべて聴かれる方なのです。貧しかろうと、育ちが悪い、問題がある、女だから、黒人だから、何だからと言って、人が虐げられて人間扱いされない苦しみの叫びを、神は聴いておられて、その痛みに気づかせます。そういう想像力の回復を、預言者の働きと言うのです。
神が、上から従順や秩序を求める方では全くなく、最も低い所の痛みや叫びを嘆く神である。その事に気づいて、周りの苦しみに目が開かれ、自分の嘆く力も取り戻し、ともに嘆く力も取り戻す。苦しみの原因を取り除こうとする事も大事ですが、それには限界があるとしても、やがて神が遣わすメシア(救い主である王)が来られて、すべての人が本当に大事にされて、大事にし合う社会が始まる。主の約束された正義と平和の訪れに望みがある。それが預言書から見えるメッセージです。そのために、まず十分に闇を露わにしました。痛みを感じる心を取り戻させ、訴えを取り上げ、嘆きが聞かれ、問題に向き合わさせる必要があって、預言者たちはそれをしたのです。そして、人の心に嘆く力を取り戻させつつ、その先にある希望、本当の回復を指し示したのです。それは
「キリストの苦難とそれに続く栄光」
の証しでもありました。
預言者が預かった神の言葉とは、世界を造られた神の回復・祝福の言葉です。キリストが来ただけでなく、キリストを通して私たちが罪を赦されて神の家族とされ、神の子どもとして成長し、変えられて行くという目的こそ、確実に果たされるのです。私たちの心の底もお互いの関係も、私たちの呻きや嘆きも全てを引っくるめた回復です。だからこそ、嘆く力を取り戻していくのです。社会の安定や繁栄が永遠に続くという幻想に誘惑され、葛藤する中で、
「キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい」
です。神が全ての人とともに十分に嘆き、その先に希望を抱かせるキリストの物語。それを預言者たちは語ったのです。[14]
「天地の造り主であり完成者である主よ。罪で真っ暗な時代にこそ、あなたは預言者を通し、激しい程の想像力を掻き立てて、恵みによる回復を語ってやまず、その約束通り、主が来られて大きな約束が実現しました。測り知れない確かな御業に感謝します。その完成まで、私たちの心を照らしてください。嘆きも希望もともに分かち合いながら、主を待ち望ませてください」
[1] 聖書の物語の全体像を語って、旧約聖書をザックリと見てきました。今日は旧約聖書の最後として、預言者のことをお話しします。そして「聖書の物語の全体像」というテーマは一旦今日で終わり、来週からはマタイの福音書の講解説教を始めて行きます。
[2] 鍋谷堯爾氏は「もともと、「予言」と「預言」の区別はなく、「予言」は「預言」か「豫言」の略語であり、「預」も「豫」も「アカラジメ」という意味であるから、神託とか占いとか、宗教的特殊能力によって、将来起こるべき天変地異や人生の将来を「あらかじめ告げ知らせる」という意味であった。今日、日本語の一般的用法では、「預」も「豫」も「予」という略字に統一されながら、一方では、キリスト教的意味をもった「預言」が一般にも認められるようになった。つまり、キリスト教的な意味では、「将来の出来事をあらかじめ言い当てる」よりも、「隠れた神の御旨を伝える」とか「神の言葉を預かって、伝達する」などの意味が強調されるのである」と丁寧に論じています。『聖書神学事典』(いのちのことば社、2010年)650頁。
[3] また、「預言書」は日本語聖書では、三大預言書と十二小預言書ですが、ヘブル語聖書では、ヨシュア、士師記、サムエル記、列王記が「前預言書」で、「後預言書」が上記十五書という区分の違いがあります。
[4] 創世記20:7「今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」
[5] モーセについては、申命記18:15「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」、18:18「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」および、同34:10「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。」兄アロンと姉ミリアムについては、出エジプト記7:1「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」、15:20「そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。」
[6] 「イスラエルの歴史において、イスラエルの父祖アブラハムは神から「預言者」と言われていました(創世記20:7)。アブラハムはどのような意味において、神から「預言者」と言われたのでしょうか。その答えは申命記 34章10節にあります。そこには「 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と記されています。つまり、預言者とは、「顔と顔を合わせている者」であり、「神との親しいかかわりを許されている者」、それゆえに、「神の隠された秘密を知っている者」、また「その秘密を人々に伝えるために神から信頼に値すると認められた者」といった意味なのです。」イエスは預言者です - 牧師の書斎より
[7] Ⅰサムエル記9章9節、10章5、6、10節など。
[8] Ⅱサムエル記7章2節、24章11節。
[9] 新約でも「預言者」が出て来ますが、当時まだ新約聖書が完成していない段階で、神が言葉を託された場合もあれば(使徒11章27節など)、教会での指導的役割を指しているだろう場合(エペソ2章20節など)もあります。そして、「偽預言者への注意」が詳しく警告されています(マタイ7章15節、24章11、24節、Ⅱペテロ2章1節、Ⅰヨハネ4章1節、ヨハネ黙示録19章20節、20章10節)。
[10] これまで話して来た通り、聖書は最初から世界を造られた神の大きなご計画を語ります。神が世界に対する尊い物語を用意されて、世界の底辺に働き、人の罪を贖い、必ず新天新地を完成させる物語です。神との約束をエバが破ったのに、そのエデンで神は、エバの子孫から救済者が現れると告げられました。その後もノアやアブラハム、モーセやダビデを通して、主は祝福の契約を明らかにしてくださいました。そのために、永遠の大祭司、永遠の王となる方が遣わされることもシッカリ仄(ほの)めかされていました。そして、その始まりとして、イスラエルの民が奴隷生活から救われて、神の約束を戴いた民としての出発を与えられていたのです。 それなのにイスラエルの民は、その約束に応える生き方を捨てて、他の国々と代わらない経済的な繁栄とか特権階級の豊かさとか、軍事的な強さに走りました。そのために、不正や貧しい人々、社会的弱者が蔑ろにされても目をつむりました。底辺の人々の苦しみは無視されて、上辺だけの豊かさに興じていました。そして、神礼拝も形ばかりのいい加減なものになっていたのです。預言者たちは、そういう時代に、それぞれの時代に向けて語りました。悔い改めを迫って、本当に神を恐れる生き方に立ち帰るように、求めたのです。
[11] マタイ13:16「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。17まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。」(ルカ10:24)、ヘブル1:1「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、2この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。」、11:13「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」。
[12] あまりにザックリしたまとめですので、長くなりますが、以下にブルッゲマン自身の「本書の議論のまとめ」を引用します。「まとめ 本書の議論をまとめておきましょう。共に歴史の中で新しいことが出エジプトとモーセの活動とはじまりました。モーセはファラオの抑圧的な帝国を解体すること、そして、神の自由の宗教と正義とあわれみの政治に重点を置く新しい共同体を形成することを目ざしていました。帝国の解体は神の民のうめきと不平からはじまり、力を与えるわざは新しい共同体の歌う頌栄からはじまります。 モーセの活動は、イスラエルにとってもあまりにラディカルでした。ですから、その活動によってもたらされた活力に満ちた新しい歴史に対抗する試みも存在しました。ファラオという古い歴史が、イスラエルの王制下でも続けられました。自己防衛をその関心事とする王制は、効果的に批判を黙らせ、活力の増強を否定します。しかし、預言者を長い間黙らせておくことは、王たちにはできなかったようです。イスラエルの預言者たちは、王族という現実に直面しつつもモーセのラディカルな活動を継続します。まず、エレミヤは王族意識に対抗するラディカルな批判を実践します。この批判の実践は、本質的には、葬儀を思い起こさせ、死につつあるイスラエルの悲しみを公に表現させることです。「この世界は変化することなく、永遠に続く」という偽りを言い張る王族共同体の無感覚という拒絶を打ち破ることを目的として、エレミヤはその活動を行います。第二イザヤは、王族意識に対抗して、ラディカルな活力の増強を実践しています。彼は王の即位式典を思い起こさせ、復興されたイスラエルの驚きを公に表現することによって、力を与えました。ものごとが永遠に終わってしまった、と決めつけている王族共同体の精根尽き果てた絶望を打ち破ることを目的として、第二イザヤはその行動を行いました。 続いて、預言者であり、預言者以上の方であるナザレのイエスが最もラディカルな形で、預言者のわざとその想像力の主要な要素を実践したと論じてきました。まず、イエスは周囲の死せる世界を批判しました。この解体のわざは、十字架刑をもって完遂されました。イエスが解体された存在そのものを十字架において体現したのです。次に、イエスは、神が授ける新しい将来に力を与えました。このわざは、イエスの復活において完全に人々の前に現されました。イエスは復活において神の与える将来を体現したのです。」W・ブルッゲマン『預言者の想像力 現実を突き破る嘆きと希望』(鎌野直人訳、日本キリスト教団出版局、2014年)、223-224頁。
[13] ひょっとして「預言者」というと、怪しげな出で立ちで現れて、不吉な言葉で聞く者を不安に陥れて、行いを改めさせようとする…そんなイメージを持っている人もいるかもしれません。神の代弁者として、生真面目で、容赦なく、罪を見逃さず、ニコリともしない…。しかし、聖書の預言者は、そんな厄介な人ではなさそうです。
[14] キリストは、預言者の成就であるだけでなく、キリストご自身が預言者であり、ことば(ロゴス)である。神の約束の成就そのものであり、私たちはそのキリストを宣べ伝える。キリストの言葉を宣べ伝え、私たち自身がキリストの言葉である。預言は私たちのうちに実を結ぶ。預言は、キリストの救いだけでなく、神が世界を治め、私たちに喜びや賛美、和解と平和を永遠に回復してくださる、という預言なのだから。それが成就するとは、私たちがただ主の恵みによって、その回復に入れられるということ。そのようにして、私たちを通して、神の栄光が現される!ということ。
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