聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答130~132 ローマ6章1~4節「洗礼のよろこび」

2019-08-31 21:56:13 | はじめての教理問答

2019/8/18 ローマ6章1~4節「洗礼のよろこび」はじめての教理問答130~132

 

 先回から「聖礼典」についてお話ししています。私たちの教会では、二つの儀式をイエス・キリストが定めて下さった「聖礼典」として行っています。それは、洗礼式と聖餐式(主の聖晩餐)です。この二つが、イエスが定め、聖書で守られている聖礼典です。今週と来週は、洗礼がどんなもので、どんなに喜ばしいものかを教えられます。

問130 洗礼式ではどのようなしるしが用いられますか?

答 水によって洗うというしるしが用いられます。

問131 この水によって洗うというしるしは、なにを表しますか? 

答 わたしたちがキリストとひとつにされ、その血によって罪からきよめられることを表します。

問132 だれの名前によって、わたしたちは洗礼を受けますか?

答 父と子と、聖霊の名前によって、洗礼を受けます。

 洗礼式(バプテスマ)は水によって洗うという印の礼典です。水を使って洗われます。それは

「私たちがキリストと一つにされ、キリストの血によって罪から清められること」

を表しています。勿論、洗礼式を受けたらキリストと一つにされ、罪から清められるのではありませんし、洗礼を受けなかったら、キリストに結ばれないのではありません。洗礼式そのものに魔力やパワーがあるのではありません。これはよくある誤解で、長い間教会には洗礼式の水を「聖水」と呼んで、悪魔を祓う力があるとか、きよめの儀式に使うことがありました。私たち、長老教会ではそのような考えをしません。洗礼の水や儀式そのものに特別な力はありません。ただ、イエス・キリストが、私たちをご自身に結びつけて、私たちの罪をきよめて、新しい歩みを下さるのです。それが本当のことであると、洗礼は水の洗いをもって、表してくれるのです。

 その水の使い方にも、3種類あります。

全身を水につける全浸礼

頭の上から水を掛ける灌水礼

指を水につけて額を濡らす滴礼

 この3つです。私が洗礼を受けたのは、全浸礼で、頭まで沈められました。長老教会では、滴礼でするところが多いですが、全浸礼をすることもあります。もともとの言葉、バプテスマから、全部を水に浸すのが正しいやり方だ、という人もいますし、バプテスマという言葉も、全身を浸すわけでは無いという人もいます。今日はその議論には立ち入りませんが、私たちは、大事なのは水による洗いを表していれば、このどれでもよいと考えています。そして、洗礼は大事なことですし、個人個人が勝手にやるようなことではありません。洗礼は、教会の行事として、教会の役員が承認して、牧師が執行することにしています。洗礼を授けるのは、教会が牧師に委託する務めです。それぐらい、洗礼は大切な式なのです。

 しかし、洗礼は

「父と子と聖霊の名によって」

授けられます。先週見たマタイの28章の言葉でもイエスご自身が

「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」

と言われていました。全浸礼か滴礼か、どこでやったか、授けたのは誰だったか、有名な牧師か、田舎の牧師か…そんなことは何にも関係がありません。いつ、どこで、だれが、どう授けた洗礼だった、とは言わず、

「父と子と聖霊の名によって授かったバプテスマ」

つまり、父と子と聖霊、という神様に結びつけられるのです。イエスは、私たちをご自分に結びつけて、神様との交わりを回復して下さいました。私たちを、神の子どもとしてくださり、神の子として喜んで生きるために、イエスはこの世界に来て下さいました。そのイエスを私たちは信じて、イエスとともに生きるのです。造り主である神との関係が回復されて、神を神とする生き方、心をいただいていくのです。それが、イエスが私たちに下さる「救い」です。イエスに結ばれるということは、イエスだけでなく、父と子なるイエスと聖霊なる神、その三位一体の神に結ばれることなのです。

 「父と子と聖霊の名によって」洗礼は授けられます。この

「名」

は単数で、父と子と聖霊が一つの名前を共有しているのです。大いなる神と、人となったイエスと、聖霊なる神は、本質において一つ。これを教会は「三位一体」という言葉で言い習わしています。私たちには到底理解できない神秘ですが、神ご自身が、父と子と聖霊の交わり、愛し合う関係、永遠の友情を持っているお方なのですね。神とは、孤独な神ではなく、父と子と聖霊という、永遠の三つのお方なのです。その神が私たちを造って、私たちを愛し、私たちにも愛し合うように、違う互いを喜び合うように、と願われています。それなのに、人間は神から離れた結果、お互いにも裁き合ったり、傷つけ合ったり、競争するようになってしまいました。人も、神をも、疑って、怖がって、自分をかばいながら生きています。そういう人間の考えでは、「救い」ということさえ、人と関わらず、仲良しクラブのようなフワフワした場所でゆっくり過ごす、というようなものでしょう。

 「洗礼を受けなくてもイエスを信じれば救われるのなら、洗礼は受けたくない」と言うようなことを思っている方も多いのですが、そういう時に思っている「救い」とは、「イエスと結ばれる」とか「父と子と聖霊の交わりに入れられる」とは違う「救い」でしょう。ですから、

「父と子と聖霊の名によって」

洗礼を授かる、ということは、キリストが下さる救い、信じるだけでいただける救いとは何かを思い出させてくれます。

 イエス・キリストは、私たちを愛して、私たちの罪を赦して、新しい命を下さいます。自分中心に生きて、神とも人とも自分との関係も壊してしまう罪から救い出して、神の交わりに入れ、私たちのお互いをも神の愛と知恵をいただいた、新しい関係にしてくださいます。そういう新しさを、イエスを信じる時にいただけるのです。でも、それだけでなく、洗礼式をイエスは定めてくださいました。私たちが本当にイエスから新しい命をもらったと、自分も他の人も分かるためにも、洗礼式を用意してくれました。全浸礼だろうと滴礼だろうと、それは水を使った儀式に過ぎないようですが、でもイエスが私たちの罪を赦して、神の家族に迎えてくださったことは、変えられない事実なのだと、洗礼式は表してくれています。

 そして、洗礼は一度受けたら、再び受け直すことは出来ません。教会から離れたり、罪を重ねたり、信仰を捨てることがあったとしても、再び帰ってくるなら、イエスは迎え入れてくださいますし、前の洗礼が無効になったとは考えません。イエスが私を救って始まった新しい歩みにも、山あり谷あり、何でもあっても、それでもイエスが私を捕まえてくださった新しい関係は決して解消されることがない。そのことも洗礼はハッキリと示してくれるのです。洗礼は本当に喜ばしい儀式です。

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