聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

Ⅱサムエル記18章24-33節「ダビデという人 Ⅱサムエル記」

2019-06-30 20:26:54 | 一書説教

2019/6/30 Ⅱサムエル記18章24-33節「ダビデという人 Ⅱサムエル記」

 今月の一書説教は、サムエル記第二です。第一の途中で登場した少年ダビデが、正式に王として即位し、統治していきます。そのダビデの四十年にわたる統治の出来事を二四章まで伝えていく内容となっています。ダビデほど詳しくその生涯が伝えられている聖書の人物は、イエス以外にいません[1]。詩篇の祈りの多くもダビデに結びつけられて、信仰や賛美、怒りや叫び、人間らしい正直な言葉に、私たちは慰めや励ましをもらうのです。Ⅱサムエルも実に人間らしいドラマです。ダビデは幼子のような温かさも見せ、随所で失敗も犯します。そしてダビデの息子たちの過ち、とりわけ今日の18章のアブサロムの謀反が、読む者の心を打つ書です。

 ダビデは一国の王である以前に一人の人、一人の父親でした。クーデターを起こして父王を葬ろうとするアブサロムに対しても、王として憎しみや政治的な判断よりも、父としての息子への愛が勝るのです。18章でダビデ軍はアブサロム軍と衝突しますが、そこでもダビデは息子の命が気がかりで、最初から

「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ」

と懇願して戦場から伝令が走ってくるのを待っていました。戦闘でダビデ軍が勝利し、アブサロムは打たれて死にます。それを伝える伝令が駆けてきた時、最初一人が見えると、

25ただ一人なら、吉報だろう」

と言い、もう一人が見えても

「それも吉報を持って来ているのだろう」

と言い、最初の伝令がアヒマアツみたいだと言うと

27あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう」

と。何の根拠もないのに、「縁起を担ぐ」ダビデの親心です。戦いの勝利よりも、ダビデに気になるのは

「若者アブサロムは無事か」

です[2]。アブサロムの死が伝えられて、

33「わが子アブサロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム…」

 この悲痛な叫びが、第二サムエル記でも最も耳に焼き付いて離れない嘆きとなるのです。

 この言葉は私たちの心に響きます。特に大事な人を失った方には刺さります。この台詞(せりふ)にも、ダビデがアブサロムにもっと早く思いを伝えていたら、という後悔があります。ここまで、ダビデはアブサロムとの関係をギクシャクさせてきました。父として向き合わなかった後悔がここに迸(ほとばし)っています。王として反乱を鎮める義務は当然でも、それでも人として悲しい、叫びたい、自分が代わってやりたい、そういう心をサムエル記は汲み取っているのです。「聖書に書いてあるのだから、ダビデのしたことだから、間違いはないはずだ、バテ・シェバへの過ち以外はダビデは正しかったのだ」と思うことはありません。

 私たちの生活でも、何かあると自分か誰かの責任だろうとか、正しく生きていればひどい事は起きないはずだとか考えたがりますが、でも現実はもっと思いがけず、不条理です。サムエル記はそういう複雑な現実の鏡です。

 Ⅱサムエル記の最初、逃亡生活から戻った時、ダビデの部下は六百人[3]。それが、最後24章での人口登録では百三十万の兵士を数えるまでに大国化していました[4]。サムエル記を通じて、徐々にダビデが権力を得て、民族が王国となり、身分の格差を生じさせる激動が垣間見えます。それでもその頂点にいるダビデが満たされることはありませんでした。経済的に豊かになり政治が安定し、妻を多く娶っても、ダビデの心が向いていたのは、家族や人のぬくもりでした。失敗し、臆病になり、慰められ、教えられる。そういう率直な姿をサムエル記は描くのです[5]

 7章には、主がダビデに

「永遠の家を建てる」

と約束されます。「ダビデ契約」です。でもその後ダビデや息子たちの問題が続々起きます。特に11章の姦淫と殺人は有名です。部下の妻バテ・シェバを寝取って、隠蔽を図り、最終的にはその部下と他の兵士も巻き添えに戦死させるのです。主は預言者を通してダビデの罪を責めます。ダビデは自分の罪を認めますが、主はダビデの犯した罪の結果は引き受けさせるのです。最初の子は死ぬのです。でも、その罪だけを余りに道徳的に捉えないでください。「ダビデがバテ・シェバと罪を犯したために、その子どもたちが強姦や殺害、そして、アブサロムのクーデターまで引き起こした」とすべての原因をダビデの姦淫に見るのは極端でしょう。「子どもの罪は親のせいだ」とか、「あの最初の罪さえなければその後はもっと順調で幸せだったのだ」などと単純に結論できはしないのです。

 確かにダビデの罪は厳しく責められました。最初の子は死にました。でも次に生まれたソロモンは、主が

「エディデヤ(主に愛された者)」

と名付けるのです。そして、やがてダビデの王位を継承するのは、他の、曰(いわ)くの少ない子ではなく、ソロモンなのです。「ダビデ契約」は、ダビデの罪によっても反故にされることはありません。むしろ、ダビデも最初から様々な過ちを犯していたし、子どもたちも他の人たちも様々に悪をしでかし、禍を招いてしまう。そういう中に主がなおいてくださる。恵みが注がれ、悔い改めへと導かれる。ハッキリ「主が」と語られなくても、いつもダビデは助けられてきました。それも、思いがけない人物や一回しか登場しない人を通して、主は隠れて働いておられるのです[6]。「罪を犯せば罰せられる」とか「人の信仰に応じて神が祝福する」といった道徳的枠組には収まらない人間と、その中で悔い改めさせ、赦し、回復、慰めてくださる主の恵みが、サムエル記には聞こえてくるのです。

 交読しました22章は、ダビデが読んだ詩です。長い詩で、主を誉め称えています。この賛美がサムエル記の最後に置かれています。ダビデの大きな罪も十分知った上で、そのもたらした混乱や悲しみも十分見据えた上で、ダビデは自分を責めるよりも、主を誉め称えます。

28苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。

29主よ、まことにあなたは私のともしび。主は私の闇を照らされます。

 この言葉一つ一つが、ダビデの口から発せられたと思うと、不思議な美しさを持って来ます。バテ・シェバの事だけでなく沢山の罪を犯してきたダビデ。一国の王である前に、一人の人間であって、夫としても父親としても不完全で、罪のもたらす取り返しのつかない後悔も数えきれない程引きずっている。そのダビデは、「主が自分の神として私に良くしてくださった。主が私を導いてくださった」と言い切ることが出来ました。それでも、最後24章で、ダビデは不必要な人口調査をして民に禍を招いてしまう。晩節を汚してしまうのですが、そこで主の憐れみを求めて祭壇を築いて、生贄を捧げたことでサムエル記は結ばれます。その祭壇の場所が、後のエルサレム神殿の場所となるのです。私たちの礼拝は、ダビデの偉人伝や生活の聖さの上に成り立つのではありません。うわべの奥にある闇や恐れ、あるがままの危ういダビデをも愛し、ダビデに向き合い、憐れみ、支えてくださったことに、聖書の礼拝はあるのです[7]

 ダビデは傲慢なわが子アブサロムをも愛して、

「私が代わって死ねばよかったのに。」

と嘆きました。同じように、神は私たちを愛しておられます。やがて、ダビデ契約を果たすため、イエス・キリストが来られました。ダビデを責め、人の罪や愚かさを恥じるどころか、新約聖書の一ページ目の系図で、「ダビデの子」と呼ばれることも厭わず、人の中に来られました[8]。イエスは、私たちのうわべの行いや悪を見るのでなく、心の迷いや恐れ、罪や悲しみ、呻きを知る王です。そして、私たちを「わが子」として愛して、私たちに代わって死んでくださいました。ご自分の威厳を保つよりも、私たちを失う方が耐えられないのだと、命を捨てて、私たちを神の子どもとなさいました。その深い愛に基づいて、私たちはここに集まって礼拝をしています。そして、その無条件の愛に基づいて、私たちは真っ直ぐに生き始めることが出来ます。道徳やうわべの奥に欲望や身勝手を隠した一触即発の生き方でなく、心を見ておられる主の前に、自分の罪や悲しみや恐れに正直になって、御言葉に従って生きたいと願えるのです。[9]

 Ⅱサムエル記は、複雑な人の社会の中で生きる現実を描きつつ、どこにも主が確かに働いておられることを語ります。主は、決して私たちを恥じたりせず深く憐れんで立ち上がらせてくださる。私たちがいつも主を見上げて、自分に正直に生きることを励ましてくれるのです。

「ダビデの子なる主よ。Ⅱサムエル記を感謝します。時代が変わり、家族が翻弄され、自分の変化にも戸惑っている私たちが重なります。ダビデを愛し、ソロモンを愛し、私たちを愛される恵みに感謝します。その深い赦しと憐れみを歌わせてください。自分のあるがままも、あなたの恵みも正直に告白させ、あなたの慰めを伝える一人として私たちの人生も用いてください」



[1] Eugene H. Peterson, The Book of Samuel 1 and 2, Westminster Bible Commentary.

[2] 最初の伝令アヒマアツは、アブサロムを殺したヨアブのそばにいたので、アブサロムの死を知っていました(十八9~23)。ヨアブの行動に反感を抱き、ダビデを慕うからこそ、既に伝令が駆けだした後なのに、自分もと走ってきたのですが、ダビデを思いやるからこそアブサロムの死を伝えることが出来ません。

[3] Ⅰサムエル記25:13、30:9など。

[4] Ⅱサムエル記24:9「イスラエルには剣を使う兵士が八十万人おり、ユダの兵士は五十万人であった。」

[5] ダビデの参考文献として推薦する本を三つあげます。マックス・ルケード『ダビデのように』(佐藤知津子訳、いのちのことば社)、村田美奈子『冷たく燃える火』(フォレストブックス)、ジーン・エドワーズ『砕かれた心の輝き 三人の王の物語』(油井芙美子訳、あめんどう)。

[6] 「癒やしの能力にではなく、癒やされる必要の中に現存」している。ジャン・バニエ『梯子を降りて』

[7] ダビデの最晩年と死去は、次のⅠ列王記一章二章に跨がります。区切りとしては、ダビデの生涯の最後で締めくくった方がまとまりは良さそうですが、ダビデの生涯ではなく、人口調査と悔い改めの生贄の出来事で締めくくる所に、ダビデの英雄視よりも、ダビデ(とイスラエルの民)の罪に対する主の憐れみを主題としたい、サムエル記のメッセージの視点があると言えましょう。

[8] マタイ伝1:1はじめ、9:27、12:23、他多数。

[9]「正しくあることが間違いであるときもある:キリスト教倫理とは、自分の立場を明確にすること以上に、美しいものを体現することであるのはなぜか。」中村佐知訳「クリスチャンにとっての道徳とは、神の美しさを受けとめ、その美しさを他者に差し出すような生き方と切り離すことはできません。しかし私の専門であるキリスト教倫理では(そしていわゆるプログレッシブか保守かにかからわらず、あまりにも多くの教会において)、道徳的生活とは善や感嘆や美しさから切り離されてきました。なぜなら、私たちは道徳性を神のいのちに参画することとして考えてこなかったからです。学術界においても、教会の会衆のあいだにおいても、道徳は神や罪について正しい考えを持つこと、あれやこれやの「問題」に正しい立場を持つこと、自分たちにとって疑わしい道徳観を持つ人たちを黙らせるための武器として「愛」や「従順」や「正義」、「解放」といった原則を行使することになっていました。…そのため「倫理を行う」とは、公的な場やソーシャルメディアなどで抗議を表明することで自分の立場を明確にし、自分自身の正しさを主張することを意味するようになりました。.....  西洋では、倫理の探求とは、善や真実を考慮することから、権利や意見がぶつかりあうときにどうすべきなのかを議論することに移行してしまったのです。…あなたによく考えてもらいたいことはこれです。私たちの社会や、いくつかの教会は、道徳的正しさにみせかけた病にかかっているのです。それは、CSルイスの『天国と地獄の離婚』に登場する地獄のようです。「あの」考えを持っている人や、無神経で無知な物言いをする人は耐えられないからと、他者とのつながりを切り捨てるのです。(もちろん、何が無神経で無知だとみなされるかは、各人のもつイデオロギーや道徳観によって異なります。私は、地獄は保守派もリベラルもどんな立場の人に対しても、同じように開かれているのではないと思うのですが、どうでしょうか。)私たちは自分の言葉で自らの首を絞めています。さらに困ったことに、他者の首も絞めています。ほかのクリスチャンたちだけではありません。ノンクリスチャンのこともです。さまざまな公的議論や消費主義の泥沼の只中で、今日の分断された社会という穴の中から自分たちを引きずりあげてくれるような良い知らせや、とても不思議で素晴らしいものといった、そういうものを求めているノンクリスチャンのことでさえもです。見せかけの態度だけの倫理は私たちを醜くします。人間としての私たちを奇形にします。しかしキリストはこのウィルスに対する解毒剤を差し出しておられます。キリストは、美しい行為の中で自分を失うように、と招いておられるのです。その美しい行為とは、私たちの体をキリストご自身の体と一体にするがゆえに「道徳的」である行為、不公正や死のグロテスクさにやがて必ず勝利することになる美しさに投資するために行う行為や努力です。…イエスは言った。「そのままにしておきなさい。 なぜこの人を困らせるのですか。彼女は私のために美しいことをしてくれたのです。(マルコ14:6 NIVからの和訳)…私もここ[マルコ14章]での弟子たちと同じでした。どうすれば自分のいのちをここでのイエスに結びつけることができるだろうかと、問うことをせずにきました。むしろ私は、「権力者にいつでも真実を語る」といった原則を握りしめていたのです。「自分自身の正しさではなく、イエスの御支配と正しさから来る力に信頼するような形でそれをするには、どのようにしたらいいだろうか?」「倫理とはイスラエルの神に関することであると、他の人たちに指し示すことのできる形でそれをするにはどうしたらいいだろうか?」「神の善の不思議さを指し示すことで人々の心を惹きつけるには、どうしたらいいだろうか?」「自分自身の勇敢さを宣言したり、自分自身の賢明さをひけらかすための機会にするという誘惑に抵抗するにはどうしたらいいだろうか?」と問うことはしなかったのです。私は、真実を語るときに周囲から受ける敵意を、自分のプライドの紋章のようにすることさえありました。ときには、周囲から批判や非難を受けるのは、私の言葉が預言的であることの証拠だとさえ思うのです。しかしそれは、自らにも周囲にも、苦味と高慢をもたらすだけの愚かしいことです。…これら弟子たちの嘲りにもかかわらずこの女性[マルコ14章]を動かしていたのは、自分の正しさを証明したいという願いではありませんでした。彼女にとって、これは自分に関することとは無関係でした。彼女の情熱的な願いは、十字架に向かうイエスの危険な行動に自ら連なり、そこに自分の財産を投資することだったのです。彼女は、しようと思えばいくらでも(貧しい人に施すための)効果的な行いをすることができましたが、それでも彼女はあえて、官能的で無駄とも思えることをしたのです。イエスに連なりたいという願いに動かされ、彼女はこの高価な贈り物をこのように用いたのです。貧しい人に施すときの確固たる原則に動かされたわけではありません。イエスの死についての言葉を理解した唯一の人物としての、不動の地位を得ようと思ったわけでもありません。私はと言えば、自分と同じような考えを持つ人たちからの賞賛や、私を嘲る人たちからの叱責の言葉を自分の正しさの証拠として受け取ってきました。ただイエスにだけ見つめ、イエスの生き方の美しさに自分のいのちを連ならせ、自分の持つすべてを投資するために今この瞬間に何をすべきか、と考えることをしてこなかったのです。」 MEMO on キリスト教倫理


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 出エジプト記12章1~14節「過... | トップ | はじめての教理問答118~119... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

一書説教」カテゴリの最新記事