聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問33「義と認めてくださる」

2015-02-13 09:08:16 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/01/11 ウェストミンスター小教理問答33「義と認めてくださる」

                                                        ガラテヤ二16

 

 神様が、今この世界での歩みで、私たちに下さる「益」にはたくさんのものがあります。その一番最初になる、「義認」について教えられましょう。

問 義認とは何ですか。

答 義認とは、それによって神が、私たちに転嫁され、信仰によってのみ受け取られる、ただ、キリストの義のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、私たちを御前に義なる者として認めてくださる、そのような、神の無償の恵みによる決定です。

 実はこの「義認」という信仰は、「これによって教会が立ちもし倒れもする」教理だと言われるぐらい、大切なものです。ここを間違えてしまうと、教会が教会でなくなってしまう、という肝心要のことなのですね。

 どうしてそれぐらい大事なのでしょうか。長い答ですから、整理しておきましょう。中心にあるのは、

  …神が…ただ、キリストの義のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、私たちを御前に義なる者として認めてくださる、…

です。神様は正しいお方(義なるお方)ですから、すべての罪を大目に見ることはなさいません。不正を憎まれ、悪を裁いて、報いを必ず受けさせるお方です。その神様の前に、私たちが「すべての罪を赦して」いただけるということ自体、驚くべきことです。嘘や悪巧み、意地悪や我が儘、心の中にある罪の思いも、実際にしてしまったこと、犯罪や重罪も、どんな罪も神様は見て、知って、見逃しはなさいません。どうしたらその神様の正しい怒りから救われるか、人間はあれこれ考えます。

 ある人たちは、他の人と比べます。自分も悪い所はあるけれど、他の人と比べたら、結構マシな方だから、神様も赦してくれるはずだ、と思う事にするのです。

 ある人たちは、自分の罪を償うだけの善いことをしよう、と考えます。人に親切にしたり、沢山の献金をしたり、熱心に何かをしていれば、悪いことをした埋め合わせになって、プラスマイナスで救ってもらえると期待します。

 けれども、聖書は、そういう方法はどれも完全に正しい神様には通用しない。

  …神が…ただ、キリストの義のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、私たちを御前に義なる者として認めてくださる、…

と教えているのです。私たちが何か善いことをしたから、どちらかと言えば良い方だから、ということでは全くなくて、ただ神様が、キリストの義のゆえに、私たちの全ての罪を赦してくださる。

 私が、とても返せないほどの借金をして、裁判所に連れて行かれたとしましょう。どうしたら許してもらえるでしょう。「他にももっと借金をした人もいるんだから、勘弁してください」と言い訳をしたら、借金はなくなりますか? 「これからお小遣いで少しずつ返します、毎月100円ずつ返します」と言っても、借金が何百億円もあったら、無理でしょう。そこで、イエス様が登場してこう言われるのです。「わたしがあなたの借金を全部払ってあげる。あなたはそれを受け取りなさい。あなたのことはこれからも私が引き受けてあげよう」。

 でも忘れてはなりません。それは、私が、ちょっとは良い子だったから、イエス様が気に入ってくださったのでもなく、言い訳が上手かったからでもないのですよ。只管、イエス様の一方的なご厚意によることです。

 別の喩えもしておきましょう。大事なお呼ばれをしたので、ステキな服を着て出かけたのに、行かなくても良い道で遊び歩いて、すっかり服を汚してしまった。このままでは、とてもお客様として迎えてもらえません。ちょっとゴシゴシ洗っても大事なパーティに窺えるほどにはなれません。でも、私に出来るのは、少し汚れを落とすか、汚れを隠せないかとか、そんなことしか思いつきません。けれどもそのとき、呼んで下さった家からイエス様が来てくださって、その汚れた服を脱がせてくださり、お風呂で洗ってくださって、イエス様の礼服を着せてくださって、私を迎え入れてくださった。そういうことが、神様と私たちの間でも起きるのですね。これが義認です。

 大事なのは、神様と私たちの間には、自分の努力や工夫で解決する事など全く出来ない罪の問題がある、ということ。けれども、その罪を、イエス様がただ一方的な恵みによって、赦してくださったということ。そして、その赦しを私たちは、何か善いことをしたらもらえるのではなくて、信仰によって受け取るだけ、「信じます。ありがとうございます」といただくのだ、ということです。

 もしここに、「神様の恵みは有り難いけど、私たちの努力もないと、罪を赦して貰うことはない」という考えを持ち込むと、教会は「倒れ」てしまいます。「イエス様が私たちのために十字架にかかってくださった、でもそれは、私たちの心がキレイだったからだわ」と思うようなら、「義認」ではなくなります。イエス様が私たちのために十字架にかかり、私たちの罪をすべて背負ってくださった。それは、私たちにとっては、身分不相応な、一方的なお恵みです。そう言って、ただイエス様が義としてくださる測り知れない御業を褒め称え、崇めることから始めなければなりません。

 この「義認」という事で有名なのは、今から500年前にいた、ドイツのマルチン・ルターという人です。ルターは、自分の中にある罪、汚れた心が苦しくて、義なる神様に裁かれることが恐ろしくて、苦行までして頑張ったのです。それでも、ますます赦しは遠く感じるばかりで、「私は神を憎んだ」と書いています。でも、聖書を読むようになって、ルターは、聖書に書いてある「義」が、福音の義であって、

「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられる」

義だと発見したのです。そして、ルターは当時の教会がこの事に立ち戻るように呼びかけて、宗教改革という大きな運動を引き起こすのです。

 私たちも、神様の義の衣を着せられて、すべての罪を赦されています。自分の罪を正直に認めることと、その自分の罪を神様が決して怒ったり呆れたりせずに、キリストの十字架の故に完全に赦してくださっていることを、ますます信じて感謝しましょう。

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