聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ2章1-12節「東から来た博士らの礼拝」 クリスマス夕拝

2018-12-24 06:45:44 | 聖書の物語の全体像

2018/12/23 マタイ2章1-12節「東から来た博士らの礼拝」 クリスマス夕拝

 聖書のキリスト誕生記事の一つが今日の箇所です。東の国の博士たちが、星を頼りにやって来て、お生まれになったイエスを礼拝して帰って行った、という出来事です。この博士たち、遠い東の国からやってきた、というだけでドラマチックです。その星を見た時期から「二歳以下の男の子」と計算されていますから、博士たちの旅は二年近く経っていたのかもしれません。往復3~4年という長旅です。それでも、この博士たちはただお生まれになったキリストを礼拝するために、やってきたのです。旅の危険や長い旅の膨大な費用も厭いませんでした。留守中、自分の仕事や立場を奪い取る人も出て来るかも知れません。それでも彼らは、お生まれになった王を拝みたい、とやってきました。そうしてやって来た博士たちの登場は、クリスマスの物語に存在感を輝かせています。イエスを礼拝するのは、どんな犠牲も惜しくない価値あることだと教えてくれます。

 けれども、この博士たちの来訪はエルサレムの人々には歓迎されませんでした。博士たちが

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」

と言った時、当時のヘロデ王は動揺して、エルサレム中の人々も王と同じく、不安に揺れたのです。ヘロデ王は、正式な王ではありませんでした。ユダヤは当時ローマ帝国の属国に貶められていました。ヘロデはローマ帝国に取り入って、「大王」という地位を手にしていたに過ぎません。ですからここでも、最後にはベツレヘムの二歳以下の男の子たちを皆殺しにしてまで、キリストを葬り去ろうとします。自分の地位が脅かされたと思って、こんなひどい抵抗をしています。でも、ヘロデだけではありません。エルサレム中の人々も王と同じであった。エルサレムの人も、ヘロデに反対しつつも、この博士たちの登場には素直に喜べなかったのです。そして、ベツレヘムの幼子たちの虐殺に反対することもなく、見殺しにしました。そして、やがてはキリストがおいでになったとき、最初は歓迎していましたが、段々と冷ややかになっていきます。最後にエルサレムにもう一度イエスがおいでになった時、大興奮して歓迎しますが、その五日後には「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫ぶのです。イエスがおいでになった時、その所にいた人々はイエスを歓迎しませんでした。それが、聖書に記しているクリスマスの出来事でした。

 博士たちが、星を見てユダヤにやって来たのは、その何百年も前に、ユダヤ人たちが東の方に流れていき、神の約束を伝えていたからでしょう。神がやがて永遠の王を送って下さる。その王を「一つの星」と呼んでいる箇所があるので、そのことが東の国で伝わっていったのでしょう。神は、やがて一人の王を起こすと約束しておられました。けれども、その約束を与えられた人たちは、神が送ってくれる王よりも、自分たちが王でいたかった。神よりも、自分たちが自分の神や自分の王になりたいと思っていたのです。いいえユダヤ人だけではありません。私たちもそうです。神に自分をお任せするよりも、自分の好きにしていたい。自分を守りたい。そのために、ベツレヘムの幼子たちや、他の人たちが犠牲になるとしてもしかたないと思いたい。それが人間の本心です。

 そういう私たちのため、神はとても風変わりなところから私たちに語りかけます。東の国からの博士たちがそうでした。ユダヤの人々にとっては「異邦人」です。割礼を受けていない、神の民に属さない人、一緒に食事をすることも嫌がるし、歓迎するなんて気はさらさら起きないような別世界の人でした。そんな博士たちが

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」

と現れたのです。それはとてもショックな出来事でした。そして、それ自体が、神の大きな投げかけでした。自分たちはユダヤ人だから、神の民だから特別なんだと思っていたら、神は、異邦人たちに新しい王の誕生を知らせてくださったのです。ユダヤ人の王がお生まれになったと異邦人から教えられたのです。明らかにこの博士たちのほうが真面目で熱心な礼拝者です。そして、この博士たちこそ、最初にイエスを礼拝した礼拝者となったのです。この時だけではありません。イエスはこの後も、ユダヤ社会では除け者にされていた、女性や子ども、取税人や罪人、異邦人を受け入れられます。居場所のない人の友となりました。そして最後は罪人の一人となって、十字架に殺される生き方を進まれました。それは人の予想を覆す、王のお姿です。

 クリスマスから始まるイエスの記事を通して、イエスがどんな王かを教えられます。イエスはユダヤ人とかイスラエル人、アメリカや日本といった一つの国だけの王ではなく、全世界の王です。私にとって受け入れがたい人や遠い存在の人も、イエスがその王なのです。そればかりではありません。天の星もイエスは支配しています。歴史の大きな流れもイエスの手の中にあります。博士たちの聖書の読み方の間違いさえも、素晴らしい働きになるように導いてくださったお方です。そして、そういう大きな神の御支配を受け入れたくない、自分たちだけの幸せとか人を押しのけて自分を守りたいとか思っている限りは、とても抵抗せずにはいられない王だということです。けれども、そのイエスの御支配を受け入れることは、決して恐ろしいことでも、恥ずかしいことでもありません。動揺もするでしょうが決して抵抗しなくてもいいのです。だから、イエスはここでただ「幼子」と呼ばれています。王であるのに、無防備な幼子の姿で、か弱い始まりをされます。それは、私たちの恐れや対抗意識を取り除くためではないでしょうか。世界の本当の王である神が、私たちに、幼子の姿で現れたのがクリスマスです。

 博士たちが東の方から来られたのも多大な犠牲、覚悟があってのことですが、神の子であるイエスは、もっと遠くから、もっと大きな犠牲、そして十字架にかかる決意をもってこの世界に来てくださいました。私たちに礼拝を求めるより、主が私たちを求めて、多大な犠牲を払って下さいました。そうしてでも私たちを、恐れから信頼へ、絶望から喜びへ、壁を造ることから橋をかける関係へと、私たちを造り変えてくださるのです。それが、私たちの本当の王、イエス・キリストが私たちを治めて下さる方法なのです。

〈祈り〉

博士たちの犠牲を惜しまぬ礼拝は、どれほど現状の世界に失望し、傷ついていたかの裏返しです。未だ世界には沢山の暴力があります。政治や権力にガッカリします。私たちはいつも警戒し、見知らぬものには壁を造り、神に対してさえ、警戒を抱いてしまいます。イエスは私たちが恐れを抱かないよう幼子となって下さいました。弱く小さいものとなることをあえてしてくださいました。そのあなたを崇め、礼拝します。

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