2015/07/12 ウェストミンスター小教理問答57-58「安息日の主」マルコ2章23~28節
ウェストミンスター小教理問答の順番を三回脱線しましたけれど、今日からまた元に戻して、問五七から見ていきます。十戒の解説を見ていましたので、その途中から、第四戒の「安息日を聖とせよ」のお話しをしていきます。けれども、これは夕拝ですね。日中の礼拝に来られなくて、夕拝に来ている、という方が殆どです。ですから「安息日」について、と聴いただけで、後ろめたい気分になってしまう人もいるかもしれません。最初にお話ししておきたいと思います。安息日の律法も、私たちを裁くために書かれているのではありません。神様は、私たちに安息を与えようと願って下さる、愛の父です。
十戒の中でも最も長いのは、神礼拝でもなく、殺人の禁止でもなく、姦淫の禁止でもなく、この安息日のことです。ウェストミンスター小教理問答でもそれだけ長く解説していますから、一度では話しきれず、三回に分けてお話しします。それぐらい、私たちが休むことを神様は願っておられるのですね。安息日の律法によって、私たちに重荷を負わせよう、というのではありません。そういう風には聴かないでください。主は、私たちの重荷を下ろさせてくださるお方であって、安息日律法という重荷をもう一つ増し加えたいのではありません。ですから、この第四戒は、夕拝に来ている私たちにとっても、必ず、解放や安息を与えるものであるはずです。
問五七 第四戒は、どれですか。
答 第四戒は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」です。
問五八 第四戒では、何が求められていますか。
答 第四戒は、神が彼のことばにおいて定めておられる一定の時間、すなわち、七日のうち丸一日を、ご自身に対して聖なる安息日となるように、神に対して聖く守ることを求めています。
長いですね。最初の
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」
だけでも良いのかもしれません。でもそれだけでは、分からないことがいくつも分かります。その一つだけを今日は見たいと思います。それは、ここでは神は私たちが休むことを命じるだけではなく、家族や使用人や家畜も休むことを願っておられます。
そして、そもそも神ご自身が世界を作られたとき、六日間で作られた後に、七日目に休まれたからだ、と言われています。
この「休む」という言葉を、出エジプト記31章17節では「憩う」と言い換えていますが、それは「ひと息つく」「重荷を下ろす」という言葉なのですね。勿論、神にとっても、流石に天地創造は大変だったから疲れた、という意味ではありません。しかし、神は天地を造っても疲れを知らずにまだまだ新しい物を作り続けた、というお方でもありませんでした。そこで休まれて、ひと息いれるお方でした。憩いを愛されるお方です。今日の、マルコ2章28節で、イエス様がご自分のことを、
「人の子は、安息日にも主です」
と仰いましたが、正確には「安息においてさえ主です」という意味です。イエス様は「安息の主」でさえあられます。
このイエスから目を離してしまうと、私たちは休むことが出来なくなります。安心できないので、たくさんの心配事を抱え、お金を稼ぎ、忙しくしています。
あるいは、休むと言っても、遊びに出かけたりお金をかけて楽しんだりすることで「気晴らし」をするばかりで、そこでも何かしら気忙しい思いや勝ち負けを考えている所がないでしょうか。
それは、安息をされた神の「憩い」とは違う、ただの「娯楽」やイベント、レジャーであって、神が下さる休みとは違うのですね。そして、休みたい、疲れた、休みがない、と言いつつ、でも実は、何となく忙しくしていないと不安だったり、落ち着いて座っていられなかったりするのも、特に日本人ではありがちです。休むよりも働かなくちゃ、礼拝に行く暇があったら稼いだり遊んだりしないと時間が勿体ない!と言われるのです。もちろん、聖書も第四戒も、働くな、遊ぶな、と言っているのではありません。週の六日は働きなさい、と言っていますし、その六日間だって働く時間は制限されていました。働いたり、家族で過ごしたり、楽しんだりすることを全部否定されたのではないのですね。それとバランスの取れる形で、週に一度の安息日を守りなさい、なのです。
ユダヤの社会は、週に一度は、奴隷も家畜も含めた社会の全体が仕事から離れて、神様の言葉を聴き、礼拝するようにと定められたのです。
現代の日本は、それとは違いますし、キリスト教が広まっていったばかりのローマ社会も、そのような律法の世界ではありませんでした。まだ日曜が休みでもなかったので、日曜の仕事を終えてから、キリスト者たちは集まって来て、礼拝をささげたのです。初代教会の礼拝は、夕拝が中心だったのですね! それが彼らの安息日の守り方でした。私たちも、それぞれに事情があります。夕拝に来ている皆さんの過ごし方は、十分尊いのだと思います。そして、忙しい中に夕拝も付け加えるのではなくて、忙しい中だからこそ、夕拝に来て、神様から憩いをもらっていきたいですね。
時間をどう使うかというのは、信仰と無関係ではなく、私たちの価値観そのものです。私たちは折々に、安息の主の前に静まることが必要です。
どうぞ普段の生活でも急がないようにしてみましょう。あえて最後に並び、立ち止まり、「お先にどうぞ」と言ってみてください。安息の主が下さる穏やかな心を、大事にしましょう。心が疲れたり、焦ったり、不安があったりする私たちは、世界を作られた神が、私たちにいのちを下さり、必要を満たして養って導いてくださることを思い出すことがどうしても必要です。イエス様の十字架と復活の御業を聴くことが本当に必要なのです。私たちの重荷をイエス様が担ってくださいました。私たちの重荷の重さをイエス様は知っておられます。そのイエス様を、急がずに、仰ぐことが、主の安息に生かされる人生になるのです。
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