2015/06/21 ルカ15章11~32節「喜びへ至る物語」東大和刈穂キリスト教会 講壇交換説教
気ままに生きる兄としっかり者の妹、と言えば寅さんですが、今日の放蕩息子は、真面目で堅物の兄と、自由気ままで魅力的な弟、という組み合わせです。この組み合わせも、たくさんの映画が思い浮かびます。「エデンの東」「イン・ハー・シューズ」や「重力ピエロ」。「アナと雪の女王」も近いかもしれません。この喩え話も、典型的な長男と典型的な次男、という読み方も出来ます。皆さんは、兄と弟どちらに、より感情移入できますか。弟は、生きている父に財産をねだり、遠くの街で遊び使ってしまいました。父のもとで真面目に働いてきた兄は、帰って来た弟を受け入れることが出来ません。兄息子には、こんなふざけた物語を聞く耳はなかったのです。兄が思い描いていたのは、そういう物語ではなかったのです。
実は、弟も彼なりの成功物語を思い描いていたはずです。自由になって、遠くの国でありったけのお金を使えば、きっと幸せになれる。そういうストーリーを夢見ました。退屈な人生では詰まらない。伝統とか仕事とか決まり事とか、こんな生活は鬱陶しい。自分の夢がかない、楽しんで暮らすハッピーなドラマ。それが自分の人生であるべきだ、と飛び出したのです。
兄息子は、忠実に汗水流して働けば、その努力がやがて報われると考えていそうです。
29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
兄の頭にあったのは、長年、黙々と父に仕え真面目に働いてきた自分こそ、もっと感謝や報いがあるべきで、遊び暮らしてきた弟はもう「私の弟」とさえ呼びたくない、顔も見たくない、という考えです。
「仕える」
には「奴隷のように仕える」というニュアンスがあります。喜んで仕えていたわけではなくて、不平や不満が積もり積もっていたのです。でも、それを我慢して働き続けたのだから、自分こそ正しく、報われるべきと自負して疑いませんでした。
それは、この一五章の1節2節が示しているように、当時のユダヤの指導者、宗教家たちがイエス様に対してとった呟きでした。真面目に正しく、禁欲的に生きてきた自分たちを差し置いて、清く正しい生き方の出来ない庶民を受け入れて食事をする仲間としている。そんなイエスの生き方が許せなかった。否定したかったのです。自分たちの努力や真面目さが神に喜ばれるのだと思い描いていたストーリーが否定されることを、彼らは力尽くで抵抗したのです。
イエスが父と兄息子の対話に託して、いいえ、このルカの福音書全体、そして新約だけでなく旧約も含めた聖書全体で語っておられるのは、父の家から飛び出して散々好き勝手に生きてきた人間を、神は家に迎え入れてくださる、という物語です。真面目になったり、償ったり、真剣に赦しを乞えば受け入れてもいい、という神ではなく、神の方から、人間に近づき、息子として迎え入れるために、最上の着物や肥えた子牛も惜しまず、いいえ、神ご自身のもっとも大切なひとり子イエスさえ屠らせなさってまで、喜んで迎え入れてくださる、という物語です。この、神ご自身の限りない憐れみによって、私たちは、神の家に、世継ぎである子ども(ご子息、ご息女)として迎え入れていただく結末が約束されているのです。
私たちは、この神の喜びを知らされています。弟息子をも走りより、子牛を屠ってまで迎え入れる父の愛を、私たちもいただいています。兄息子は正しく立派なようで、喜びも憐れみも欠いていて、彼の方が父からは遠く離れていました。だから、私たちは自分の行いや努力、奉仕や信仰を誇ったりしないように、謙った愛を持つ必要があるのです。
ご存じですね?
しかしそうだと分かっている筈なのに、どうでしょうか。分かっている筈なのに、なお、私の中には、あわよくば弟息子のように、夢物語が叶ったり、一攫千金のチャンスに恵まれたり、ドラマのヒーローのように、特別な存在になりたいという、子どもじみた憧れがあります。あるいは、自分の努力を誇り、「いい説教でした」と誉められることを妄想したり(笑)、他の人を蔑んだり、妬んだりする自分がいます。人の喜びを喜べず、怒りに悶々としている自分がまだいます。知識や経験で分かったつもりでも、心にはまだ、福音とは違う、恵みの神ならぬものを抱えています。放蕩で幸せになりたい、自分が頑張って神にも認めさせなければならない。
イエスは、私たちにこの物語を、福音の物語を語ってくださいました。それは、ただの物語ではありません。神の世界に対するご計画が凝縮された物語です。天地が過ぎ去っても滅びない御言葉が、やがて喜びの宴会が始まると語っています。神は、この喜びに至る物語を聞かせてくださるのです。父は兄息子を怒ったり説教したりせず、ただ言いました。
31…『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返ったのだ。いなくなっていたのが見つかったのだ。楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
奴隷のように仕えて来ようが、戒めを破ろうが、それ以前に、いっしょにいること、それが父の喜びでした。既に、父はすべてを与えていたのです。しかし、そこにいなかった弟息子は、父にとっては死んでいた。それが生き返った、見つかった。だから、楽しんで喜ぶのが当然だとだけ言います。ただそれに気づいて怒りや不満を捨ててほしい、というようです。
この「当然」が私たちにとっても当然となることが、福音です。やがて、永遠の祝宴が始まる時、そこにある喜びは、兄が思い描いたご褒美でもなく、弟が夢見た快楽でもありません。それは、私たちを愛してくださる神の喜びです。御子イエスがご自分を与えてくださる尊い喜びを、私たちは永遠に祝うのです。その喜びに至る物語の中に、私たちは今生かされています。その喜びは、どんな批判や不満よりも強い永遠の喜びです。
主が語られたこの喩え話は、私たちの物語です。福音は、否定しようのない現実です。私たちの心も、人生そのものも、イエスの福音の物語によって上書きされて、置き換えられていくのです。今、私たちはその途上にあります。まだ心には、福音とは違う考えがすぐ始まります。でも有り難いことに、それは必ずしくじります。そしてそのことを通して、私たちはますます主の恵みに信頼するのです。
「私は戒めを破ったことは一度もありません」
と言えなくてもいいのです。なぜなら、神が願っておられるのは立派な行いではないからです。私たちは、神の測り知れない喜びへと入れていただくのです。
それは最終的には、というだけではありません。今の生活もまた、喜びに向かう歩み、その恵みの福音を知らされて、新しくされていくはずです。喜んで仕える歩みです。私たちの中にある様々な渇きや憧れや不満や怒りも、主が取り扱ってくださいます。苦しみや恥も、後悔も足りなさも、すべて主はご存じで、私たちを迎え入れてくださいます。今主は私たちとともにいて、ともに仕えてくださっているのです。
「主よ。あなたのものが全部私のものであるなら、私のものも全部あなたのものです。そして、あなたの喜びを現すために、惜しみなく献げるべきものです。私たちがその喜びに生きるために、毎日この主の福音を聴かせてください。本当に主の愛によって、私たちの心の奥深くを癒され、重荷を下ろして、あなたを賛美し、礼拝し、心からお仕えする歩みをお恵みください」
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