2017/3/19 「礼拝⑮ 赦せない苦しみからの解放」マタイ18章21-35節
主の祈りの第四の願いは
「日毎の糧を今日もお与えください」
でした。それに続く「私たち」の願いの二つ目は
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたから」。
日毎の糧と罪の赦し。これこそ私たちの必要であり願うべきことです。
1.無制限の赦し
このマタイ十八章の「王としもべの例え」は、弟子ペテロの
「何度まで赦すべきでしょうか」
という質問をきっかけに語られた「赦し」についての教えです。このマタイの福音書では「赦し」という言葉が十八回も使われて、とても「赦し」を大事にしています[1]。「赦しの必要に気づいている」といったほうがいいかもしれません。マタイは、その六章で「主の祈り」を記していますが、その直後でも、今日の35節と同じ事を強く教えているのです。
マタイ六14もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
「主の祈り」を教えられた最後にこう確認されます。第五の「赦し」の願いを、他の願いに勝ってもう一度取り上げられるのです。このように、マタイは「赦し」を丁寧に取り上げます。今日の十八章の例えが示しているように、私たちは「人を赦してやるなら何度までか」と考えがちです。しかし、それに対してイエスが語られるのは、そもそも私たち自身が赦されていること、それも膨大な負債を赦して戴いていることです。主の祈りでは「罪」を「負い目」(負債・借金)と呼んでいますが、この十八章の例えでも
「一万タラント」
の借りのあるしもべが出て来ます。一万タラントとは欄外にありますように、一日分の労賃一デナリの六千倍の一万倍です。つまり、二〇万年分の労賃という膨大な金額です。これほどの負債を、彼はどうやって作ったのでしょうか。そして、彼はどうやって返済するつもりなのでしょうか。しかし、その彼のため、王は心を深く深く痛めてくださいました。27節の
「かわいそうに思って」
は簡単な言葉ではなく「腸で感じる」という言葉です[2]。そういう深い深いあわれみをもって、このしもべの莫大な負債を免除してくれました。それなのに、彼は、自分に負債のある仲間を赦しませんでした。自分が赦してもらった借金の六〇万分の一でしかない額を赦してやりませんでした。それを知った王は、彼を呼びつけて、怒り、投獄したという話です。
ここで大事なのは、王が先に彼を憐れんで巨額の負債を赦されたことです。王は「お前が仲間を赦したら、私も赦してやろう」とは言われません。まず王が、測り知れない慈悲を垂れて、返せもしない負債を返しますといって憚らないしもべさえ憐れんで下さったのです。その驚くべき赦しに対する応答は、自分もまた同じように人を赦す、という形以外にないのです。
2.「赦せませんが、赦してください」はダメ?
主の祈りを祈りながらも、こう考えていることはないでしょうか。「『我らに罪を冒す者を』私たちが赦し切れていないなら、神が私の罪を赦されないのだろうか」[3]。もっとすっぱりと
「私たちに負い目のある人を私たちは赦せませんけれども、私たちの負い目をお赦しください」
と祈るなら、どんなに楽か、と思ったりします[4]。
しかし、そうではないのです。イエスが求められたのは、私たちが赦されるだけではなく、赦されるからこそ人をも赦す生き方です。決して、私たちが人を赦したならそれに基づいて神も私たちを赦してくださる、ということではありません。まず神が私たちを圧倒的な愛で赦してくださったのです。そこには、私たちが赦すなら神も私たちを赦してくださる、という条件付きの保留はありませんでした。条件もなければ理由もない、全くもって不可解な、計りがたい赦しがありました。私たちもこのしもべも、同じように思いがけない新しい人生、赦された者としての新しい人生が与えられました。そしてその新しさは、神の憐れみに基づいています。莫大な負債さえ赦す、もっと莫大な愛をいただいたのです。だから、私たちも他者を赦すのです。他者に対して、冷たい心を捨てるのです。そうしないなら、私たちは自分が新しくされた土台を否定することになります。神は恩着せがましい方ではありません。この例えの、
33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。
は、王の心外さ、悲しみ、叫びです。王は彼にも憐れみ深く生きて欲しかったのです。神は、私たちを赦すだけでなく、私たちが互いに赦し合うことを心から願うのです。
「我らに罪を犯す者を我らは赦せないけれど、我らの罪をば赦したまえ」
という祈りなんかではないのです。
私も誤解しやすいのですが、赦しとは「不問に付す」「大目に見る」のとは違います。この十八章も直前の20節までで丁寧に、教会の中での「つまずき」の問題を扱っています。つまずきが起こるのは避けられない[5]。人間関係で大きなダメージが起きることは避けられない。それをイエスは丁寧に扱われ、15節以下で対処を論じられます。責め、報告し、公開し、祈るのです。何も対処をせず目を瞑り、放任するのが赦しではありません[6]。そうした現実的な対応のアプローチが示されるのです。その続きの21節以下で、その対処が七度までか、いや、七度の七十倍、つまり「限りなくせよ」と言われたのです。それは本人の回復を願うからです。
3.「罪人」ではなく「神の子」
躓きが起こるのは避けられません。私たちも神に対して負い目を重ねずには生きられません。神からお預かりした命や時間や体を、本来の目的通り運用する事が出来ません。口や手、能力や特権を神の御名があがめられるためではなく、御心を行うためでなく、悪用してしまうことが避けられない私たちの現実を神は十分にご存じです。そこで神が私たちに求められるのは何でしょう。失敗を繰り返さない努力でしょうか。ゴメンナサイと謝罪し、罪意識を抱えて生きることでしょうか。いいえ、神は私たちをご存じです[7]。その避けがたい現実に苛立つよりも、その私たちの「天にいます父」となってくださいました。イエスは主の祈りの最初に、罪を怒る神、返しきれない罪を責め、眉をひそめている王ではなく、
「天にいます私たちの父」
と呼ばせてくださいます。神は既に私たちの「父」となり、私たちを深く憐れみ、私たちにも神に愛された者として生きる新しい歩みを下さったのです[8]。神が私たちを赦されるのは、私たちを愛しておられるからです。そして、私たちの現実をどう変えていけば良いか、一緒に苦しみ、取り組み、助けてくださいます。躓きや罪が避けられない中で、今ある現実に対処しつつ、何度でも何度でも、回復や和解や癒やしに向かうことを願い、助けてくださる「父」なのです。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」。
そう祈りなさいと言われた主のお言葉自体が、私たちに与えられた新しい生き方の証しです。主イエスは、赦しなさいと道徳を命じられ、赦さなければ赦されない、と捨て台詞を残されたのではありません。そして、神が人間の罪を丁寧に赦し、責めるよりも救いを下さることを何度も宣言されました。そして最後には、御自身が十字架に犯罪者として殺されることを通して、すべての負い目を代わって支払ってくださいました。[9]
私たちにはまだ罪の性質はあります。躓きは避けられません。でも神は赦しのお方です。「罪人」とは私たちの性質や自覚であって、決して私たちのアイデンティティや肩書きではありません。私たちは神の子どもです。神の赦しを戴く者です。神の憐れみは膨大な借金よりも大きく、神の恵みの力は私たちのどんな失敗よりも強い。そして、十字架のキリストが下さる罪の赦しを信じる者です。福音は、私たちの罪を責めない以上のものです。それは私たちに自分の罪を認めさせて赦しを求めさせ、他の人を赦せない思いからも解放してくれます。
赦しがたい問題があり、赦せない心がある私たちの現実に、この祈りは光を与えてくれています。
「主よ。私たちの負い目の赦しを願うのは、あなた様の測り知れない憐れみを信じるからです。その赦しの恵みを仰がせてくださり、人を赦せない思いや人を傷つける自分の姿にも気づかせてください。そうして自分を責め、あなたを冷たい神だと決めつける思い込みからも救い出してください。主イエスの下さった赦しとこの祈りにより、どうぞ私どもを新しくしてください」
[1] アフィエーミが十八回で、そのうち「赦す」と訳されているのは十八回です。他は、放っておく、置いておく、そのままにする、などの意味で使われています。「(罪の)赦し」に限らず、網や死人や雑草、を構わなくすることがアフィエーミです。二二22(イエスを残して立ち去った)が最も分かりやすいでしょう。罪を過去の変えられない出来事として、過去に置いておくことが「赦し」です。もし過去を何とかしよう、あるいはまだ捨てずに持っていたい、というなら、それは「赦し」を求めているとは言えませんし、そんな態度は神も赦しようがないでしょう。赦すとは、そのものから自由に生きることなのです。
[2] ギリシャ語「スプランクニゾマイ」。
[3] あるいは、文語では「我らが赦す如く」と言い、新改訳では「私たちも…赦しました」と言う、その微妙なニュアンスの違いで、自分たちの赦し方に基づいて、神の赦しも代わるのかどうか、でまた悩みそうになるかも知れません。この接続詞の訳は、日本語に訳すのが難しいのです。しかし、後述するように、全体的な「神の赦しと私たちの赦しとの対応」が分かれば、この訳語や関係で悩むことはないでしょう。「どこまで赦さなければならないのか」という問い自体、十八章21節以下でペテロが問い、イエスが覆された人間的な発想なのです。
[4] ここを読んで、「神の赦しは、私たちの赦しが十分でなければ、与えられないのだ」とは思わないでください。神は私たちを赦して、もう完全な救いに入れて下さるのです。しかし、それは私たちが人を赦さなくても自分だけは救ってもらえる、という「救い」ではありません。私たちが人への傲慢、自分を義とするプライド、他者の罪や過ちへの軽蔑、そして「そもそも自分が赦されたこと自体、大して自分には非がなかったからなのだ」と言わんばかりの思いから救われることが必要なのです。自分の失敗を隠し、胡麻菓子、言い訳し、他者に対して攻撃的である生き方そのものから救い出され、かぶっていた鎧を解くようになる救いへと、神は招かれるのです。
[5] マタイ十八7つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。
[6] 復讐は神に委ねる、ももう一つの柱。個人的に、感情的に、「正義」を果たそうとしてはならないことの自戒です。「復讐をしない」という意味での赦しは、「復讐は神の正義に委ねる」という意味です。神は人の復讐心を怒られると言うより、「わたしに委ねなさい」と引き受けてくださるのです。
[7] 私たちが一方で「まだ神は怒っておられるのではないか」とビクビク考え、他方で自分が赦されたことを忘れて他人の失敗を怒っている、そういう生き方そのものを憐れんでおられます。なぜなら、神は「天にいます私たちの父」だからです。
[8] イエスが世界に差し出されたのは、神が裁くお方である以上に赦しの神、回復の神、和解と平和を創り出す大いなる神であるという福音でした。私たちはその赦しに自らを差し出します。決して、神の怒りを恐れて、その宥めをビクビクと求め、キリストの慈悲に縋って赦しにあずかるためではなく、神の大いなる愛とあわれみのゆえに、差し出された赦しと救いをいただくのです。そして、その赦しをいただいた者として、私たちが他者を赦す時、私たちはイエスが始められた大いなる赦しの宣言に加えられるのです。
[9] そして、三日目に復活されて、弟子達に現れた時、その赦しや身代わりを恩着せがましく語られはしませんでした。むしろ、神の子どもとする聖霊を与えてくださったのです。
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