2017/3/12 ハイデルベルグ信仰問答56「赦し以上の恵みを」ローマ8章1-2節
先ほど「罪の告白」の最初に、ミカ書の言葉を読みました。
ミカ書七19もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。
「海の深み」ってどれほど深いのでしょうか。
調べてみると、世界でも最も深い海のマリアナ海溝は一万メートル以上。エベレストの山がすっぽり入ってしまうほどなのだそうです。聖書は、罪の赦しとは、神が私たちの咎を踏みつけて、すべての私たちの罪をマリアナ海溝の底に投げ込んでしまわれるようなことだと教えています。投げ込んでしまったものは、もう海の深みにもう一度潜って取ってくることは出来ません。神が私たちのすべての罪を海の深みに投げ入れるとは、もうそれを決して持ち出すことなく、完全に永遠に赦してしまわれた、ということ。私たちも、罪をそのような神の赦しによって受け止めていく、ということです。これはキリスト者の信ずる画期的な告白です。
問56 「罪のゆるし」についてあなたは何を信じていますか。
答 神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わねばならない罪深い性質をももはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決してさばきにあうことのないようにしてくださる、ということです。
「使徒信条」もあと少しという所になって「罪の赦し…を信ず」という言葉が出て来ます。聖霊のお働きを、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と見てきた大きな告白に続いて、「罪の赦し」という私たちの生き方の問題点にスポットライトが当てられます。人間の恥部、聖なる教会の影である「罪」が取り上げられます。しかし、それは「罪の赦し」としてです。罪や恥を、今や「赦し」という光の中で見ることが出来るようになった、というのです。「罪の赦し」というと「キリスト教は暗いなぁ、堅いなぁ」と考えるむきもあります。しかし、罪の赦しは人間を責め立てるものではありません。むしろ驚くほどの解放、希望、明るい告白なのです。
悲しいことに、「罪の赦し」を「赦し」よりも「罪」に強調を置いて考える人は少なくありません。キリスト者や牧師でさえそうです。神は私たちの罪を責め、いつも反省を求められ、赦しを乞うたら、「よし赦してやろう」と言ってくださる。そういうパターンを考えている人は少なくありません。それは、人間の出来る「赦し」がせいぜいそのような反省や謝罪によってでなければ、罪が造り出してしまった傷を乗り越えることが出来ないからです。罪を扱う難しさを、人間はどうすればよいか分からないのです。ですから、神が「罪の赦し」を語られると人間もたじろぎ、きっと神は無理矢理「寝た子を起こす」ようなことをなさるのだろう、と思い込みます。
あるいは逆に、神は「罪を赦して、大目に見てくださるのだ」と勝手に思い込みます。「大目に見る」「目をつぶる」というのも人間の冒しがちな問題解決だからです。神は私たちの罪を見ないふりをされて、罰することをなさらないお方なのだ、と考えるのです。それが「罪の赦し」であるとしたらキリスト教はとんでもない甘ったれか、無責任か、現実逃避です。
罪の赦しとは、そのような甘やかしとは違います。罪なんてたいしたことはない、だれでもやっているさ、と大目に見るどころか、罪のもたらす傷や問題、人間の心にあるすべての醜い思いをシッカリと見るのです。だからこそ、神はそれを私たちにあってはならないこととして、処分され、海の深みに投げ込んでしまわずにはおれません。私たちがそれを抱えたまま、握りしめたままでもいいとは決して仰らないのです。でも、神はすべての罪を踏みつけて海の深みに投げ込まれるのであって、罪を抱えた「私たちを踏みつけて、海や地獄に投げ込もう」とは決してなさいません。そして、どんなに大きく、取り返しのつかないような罪を犯した人も、もうその罪や過去を消せないで、永遠にその看板を背負った者として見るのではなく、その罪の過去を海の深みに投げ込まれた者として、受け入れ、愛し、喜んでくださるということです。これは実に大胆な告白です。
ですから、「罪の赦し」を信じるとは、自分の罪はもう赦されたのだから自分は悪くないのだ、と開き直ることとは違います。もし罪がそのような軽いものだとしたら、そもそも赦される必要もないし、神が踏みつけてしまうこともないでしょう。そして私たちはどこかでそれが分かっているからこそ、いつも後ろめたい思いを抱えているのです。自分の過去がバレたら人が離れていくだろう、神様も本当は私の心を知って業を煮やしておられるに違いない。そう思いがちなのです。そういう私たちのために、礼拝で、「罪の赦し」の時間を設けるのです。
夕拝で「罪の告白」の祈りや沈黙の一分間を持つのは、そうすることで罪を赦していただくため、ではありません。その逆です。まだ赦されていないように思っている罪、心に重くのしかかっている思いをそのままに主に祈るのです。そして、「この罪も赦して戴いたと信じます。この重荷も、もう私が負うのではなく、あなたが負って下さったと信じます」。そうやって「赦し」を受け止めるのです。そういう測り知れない恵みと慰めを、「罪の告白と赦し」で確認するのです。
イエスは、私たちを罪から救うために十字架にかかって生贄をなってくださいました。私たちの罪をすべて海の深みに投げ入れてくださいました。だから私たちは、「罪の赦し」を「罪」ではなく「赦し」に強調を置いて大切にするのです。そこに与えられたのは赦し以上の恵みです。私たちが罪を赦されただけでなく、キリストの義を与えられて、罪に振り回されない正しい生き方をさえ戴けるのです。まだまだ罪の性質は残っています。しかしもう罪は私たちのアイデンティティではありません。私たちは日々、主イエスに助けていただいて、罪や不法のない生活を求めます。誰かを傷つけてしまったことには、本当に悔いて恥じ、誠心誠意を尽くして、償うべき事を償おうともするのです。そして、自分の罪の重荷に押しつぶされそうな人、人生を棒に振ってしまったような人にも、「罪の赦し」を信じる者として、向き合うのです。
イエスが接したのは、売春婦や病人、卑しい職業についていた人たちでした。イエスは彼らと普通に交わり、一緒に食事をし、新しい希望を与えられました。それは当時の社会では考えも着かなかった驚くべき関係でした。「罪の赦し」を信じるとは、お高くとまるどころではない、自分をも他者をも、何よりも神御自身を、度肝を抜くほど新しい関係に置く告白なのです。
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