聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ伝4章1~17節「大きな光」

2019-11-03 16:42:51 | マタイの福音書講解
2019/11/3 マタイ伝4章1~17節「大きな光」
17この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」…。
 こう言われた17節からイエスの宣教が始まりますが、その前に
御霊はイエスを荒野に導いて悪魔の試みを受けさせた」
とあります。前回の洗礼で、すぐに宣教を始めて良かったろうに、その前に四十日の断食と、サタンから厳しい試みを受けて勝つ遠回りをイエスはなさいました。それは、イエスの宣教、キリスト教のメッセージそのものにとって、この試みが大きな意味をもっていたからです。そもそも創世記の3章で、エデンの園にいたアダムとエバを、ヘビが誘惑して成功した所から、人間の堕落、放蕩、闇が始まり、それを追いかける神の物語も続いていました。試みる者、神との関係を試して壊そうとする存在、人を騙して神から引き離そうとする悪しき力が働いている。「主の祈り」の最後に、イエスは私たちに
「試みに遭わせず悪(悪い者)からお救い下さい」
と祈るよう教えられました。そのイエスご自身が、まず試みに遭われ、悪い者からの挑戦を受けて、退散させ、その上で、宣教を開始されたのです。
 その意味でも、この記事が全部文字通りの事かどうかは問題ではありません。
「四十日四十夜の断食」
は疑う必要がないとしても[1]、サタンが近づいて見えたのか、どんな姿だったのか、と想像するのはお門違いでしょう。エルサレム神殿の屋根の端に本当に立たせたのか、神殿の参拝客たちは見上げたら見えたのか。非常に高い山に本当に連れて行ったのか、この世のすべての王国とその栄華を見せる山が本当にあるのか。そういう問題はどうでも良いのですね。
 また、この三つの誘惑も沢山の面を持ちます。最初の誘惑、
「石をパンに変えよ」
の誘いは御霊の導きを疑わせる面もありました。またイエス自身だけでなく、これから出会う民衆の空腹を満たしてやりたい、当座の要求に応える能力を求める誘惑でもあったでしょう。自分たちの欲求を求めるポピュリズム、期待に応えたいという英雄願望。そして勿論、「食べ物の誘惑」という身近なことも重なります[2]。これに対してイエスは、御言葉をもって応じました。神の言葉の約束が十分な答でした。しかし次の誘惑では御言葉が誘惑になります。詩篇九一篇を掲げて「聖書にこう書いてあるんだから、下に身を投げて見なさい」と言います。これは、高い所から飛び降りて人々をアッと言わせ、一気に民心を掌握しようという誘惑でもあるでしょう。自分のために聖書の言葉を都合良く引用する、という誘惑でもあります。或いはイエスが答えたように、聖書の言葉で「主を試みよう」とする誘惑も思い起こさせます。三番目の誘惑は、権力を得ようという誘惑。サタンにひれ伏して、妥協して、近道を行こうという誘惑も考えさせられます。9節の
「もしひれ伏して私を拝むなら」
には「一度だけ拝めば」という言い方ですが、「一度ぐらい大丈夫」という誘惑も誰もが思い当たるでしょう。「近道」というのはそれ自体誘惑であり得ます。もう一つ大事な事があります。後にイエスが初めて、苦難と死に至る将来を明らかにした時、ペテロは真面目にイエスを窘(たしな)めました[3]。イエスはここと同じ言葉で
「下がれ、サタン」
とペテロを厳しく叱ります[4]。神が選んだ十字架に至る苦難の道、偽りのない愛の道ではなく、サタンに頭を下げて楽な道を行こう、それは誘惑でした。
 私たちはここに自分の様々な誘惑を重ね合わせられますし、イエスにとっての誘惑の意味も様々に推測できます[5]。アダム以来、あらゆる場所で誘惑に晒(さら)されている私たちのために、イエスは自ら厳しい試みを受けてくださいました。そこで、「神の子」としての特別な力に頼らず、どこまでも「人」として立ち、御言葉で勝利して下さった。そのイエスが私たちとともにおられます。私たちを支え守り、闇の中でともにおられる事を、この恵みを覚えたいのです[6]。
 この後12節で、イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退きます。ヨハネを捕らえたのは、ガリラヤの領主ヘロデです[7]。イエスは危険から逃れて退かれたのではなく、ヘロデのお膝元である危険なガリラヤに退きました。それも住み慣れた故郷で寛(くつろ)ぐためではなく、領主ヘロデの下で生きざるを得ない人々の所に来て住むためでした。支配者の不法な振る舞いにも何も言えずお先真っ暗な思いでいる人々、ヨハネが捕まって「ヨハネの声など何にもならなかった、ヨハネから洗礼を受けたこと自体、なかったことにしたい」と思っていたかもしれない。そこにイエスは来て住まわれました。それはイザヤの預言の成就でした。
4:15「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
16闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。
 「大きな光」。それは、イエスの存在そのものでした。石をパンに変えるわけでも、ヘロデを王位から追い出すこともありませんでした。神殿の頂から飛び降りたり、神の約束を力強く成就したりもしませんでした。しかし、イエスはそこに来られて、一緒に住んで下さり、ヘロデのお膝元のガリラヤで、「あなたがたの王は神である。神の国があなたがたの側に来た」。
4:17…宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
 「あなたがたも神の国の市民として生きよ」と仰る。そしてこの後、天の御国とはどんな国か、どれほど意外で、どれほどこの世界と違うかを丁寧に説き明かす宣教がガリラヤで続くのです[8]。神の国の福音がどんなものか、暗い心を照らす光のような言葉や力ある業の数々をこれからこのガリラヤで行われるのです。イエスは奇跡や癒やしを行われますが、自分のための奇跡や、人気集めのための癒やしをしたことは一度もありません[9]。自分のために名声や楽や権力を求めるのでなく、民とともに歩むことを求めました[10]。
 でも、ガリラヤの人々にとっての闇は、ヘロデだけでなく、自分たちの中にもありました。弟子たちを見ると、彼らがいかにイエスの願う所とは違う方向を見ていたかが分かります。サタンが騙す以前に、石をパンに変えられるものなら変えたい。自分たちの力を見せたい。この中で誰が一番かをいつも考えている。立派なクリスチャンだ、信仰のある人だ、神が愛であるなら、力や癒やしや奇跡がほしい。恥や闇や痛みは避けたい。そういう思いそのものが、実は「闇」でしょう。イエスが来られた時、そうした人間の闇、神を求めるよりも神の代わりになるもの、神の言葉を信頼するより一時的な実感できる何かを手に入れようとする闇が露わになっていきます。弟子たちもそうでした。もし弟子たちがサタンにこんな挑発をされたら簡単に力や照明を求めたでしょう。いいえ、弟子たちがサタンの代わりになって、神を試し、証拠を求めることさえある。[11]
 ここに私たちは、自分を誘惑される立場に重ねる以前に、私たちがイエスを試みるという事実を重ねずにはおれません。「主がおられるだけでは足りない、私の願うものをくれなければ信じない」という態度でいるのです。でも、有り難い事に、イエスはそんな私たちの挑発には乗りません。イエスは、私たちの必要を十分にご存じであり、必要以上の恵みを豊かに下さる天の父なる神への信頼から、祈り願うようにと教えました[12]。そして、それがなかなか出来ず、すぐに誘惑に負けて、闇を埋めようとする弟子たちとも、ずっとともにいて、弟子たちを育ててくださいました。神の国とは何かを教えてくださいます。試みに遭わせないよう、誘惑に陥らないよう祈る事を教えます[13]。言い換えれば、闇に必要なのは、それを隠す立派な蓋ではなく、闇の中に神が来て下さることだと教えるのです。それはとても地味な働きですが、そういう地味で回りくどい歩みこそが、人の闇を本当に照らします。うわべの繋がりより、その裏にある闇や恥、隠している所に来てくれる人がいる。それは本当の光、慰めです。それゆえにイエスが来たことが
「大いなる光」
と呼ばれるのです[14]。このイエスの「大いなる光」が、私たちの中に輝き始めた。それが
「天の御国は近づいた」
という現実です。私たちはそれを信頼します。そのために、誘惑に弱く、闇もあるままの私たちを、お捧げしますし、イエスも私たちを誘惑を通しても成長させ、深く変えて、救い出してくださるのです。

「主よ。私たちのために、苦難の道を歩み抜いてくださり、私たちとともにいて、試みからお救いくださることを感謝します。私たちの心を照らして下さい。虚しい誘惑を求めているなら、光によって露わにしてください。何が誘惑かも分からず迷う時も、素直にあなたを信じて委ねます。たとえ御心が見えなくても、それを通してなさろうとしていることをなしてください」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] イエスの働き全体を無視してはこの誘惑の理解も間違うように、イエスとは違う召しを与えられた私たちも、それぞれに立場や成熟度によって、誘惑の内容・方向性も当然変わってきます。飢えた状況でと、飽食の時代とでは、誘惑の内容は全く異なるだろう私たちは、イエスの味わったこれほど深い誘惑以前に、もっと手前の欲望で誘惑されるものです。弟子たちは、「誰が一番偉いか」や、人を見下す誘惑にしょっちゅう流されている。そのすべての誘惑も含めて、イエスは勝って下さった。「わたしは、大学生の時にシベリアの抑留体験をした山中良知先生が、「足立君、人間にとって一番恐ろしいことは何かわかるかね」と尋ねられ、「飢えだよ、だから、イエスさまは悪魔に最初に試みられたのは飢えの時だったんだ」と言われました。その言葉を今も忘れることができません。シベリアの抑留生活において先生は、人間が飢えという極限状況の中で多くの同胞が死に、また生きるためにどんなに醜い姿になるかを、その恐ろしい現実を体験されたのでしょう。」上諏訪湖畔教会説教HPより。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] 「下がれ」も、ヒュパゲ。山上の説教で(5:24、41)、癒やされた人に(8:4)、百人隊長に(8:13)、悪霊に(8:32)、ペテロに(16:23)、罪の戒規の場面で(18:15)、富める青年に(19:21)、ぶどう園の譬え(20:4、7、14)、などなど。

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] しかし単純に、《イエスがしたようにすれば、私たちも誘惑に打ち勝つことが出来る》という読み方は、しなくてもよいことも強調しておきたいのです。

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] 14章1節で、ヘロデがイエスのうわさを聞いて、おびえるくだりが出て来ます。ヘロデがイエスの活躍に気づくまではそれなりに時間がかかったようですが、それでも確かにイエスの働きは、ヘロデを怯えさせるほどにふくれていきました。イエスはそれまで、ヘロデの足元のガリラヤで語り、その人々を説教で驚かせ、神の国の力を示し、神への信頼、御国の世界を見せ続けられました。しかし、そこでは、この荒野の誘惑でサタンが誘いかけたような、神への信頼を試したり背を向けたりするような姿勢は終始退けていました。

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-align:justify;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10]  このイエスが来てくださったこと、私たちの誘惑を体験的に知り、最も厳しい誘惑に晒されて、私たちの弱さを知っているお方が、私たちとともにおられること。これこそが、私たちにとっての慰めであり、希望です。勿論、それだけでなく、主は私たちの必要を満たし、喜びや恵みを具体的に下さっています。そして私たちは自分が願うものを、主への信頼から祈るようにとさえ言われています。そういう深く強い関係を、イエスはもたらしてくださいました。イエスが私たちを今もこれからも助けてくださる。このイエスへの信頼をいただくのです。「ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 この「折に叶った助け」は神の子どもとしての特権で、石をパンに変えたり何かすごい能力を持ったりすることではありません。聖書の言葉を掲げて神を試して、人気や楽な道を行く、というのも誘惑です。その逆に「自分の力で誘惑を退けよう、御言葉を知っているから絶対大丈夫」と考えるのも、弟子たちと変わらない勘違いです。でもそういう勘違いをし続ける弟子たちをイエスは変えてくださいました。弟子たちの俗物根性や、十字架に向かうのとは反対の道にすぐ目を向けてしまう傾向に釘を刺しつつ、その弟子たちとともにいてくださいました。そして、自分のために能力や名誉を求める生き方から、イエスとともに、闇の中にいる人に光を届ける働きに派遣されました。そのためにはまず、弟子たちが自分の闇に来て下さったイエスを、誘惑に負けたりしくじったりする中で味わい知っていく、長い道を通ったのです。

[11] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[12] ただし、マタイ6章によれば、それは人に見せるためにでもないし、長々と祈る事で神を動かせるかのような不信(神を小さくする罪)からでもない、と釘を刺されています。

[13] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[14] それを忘れては、神の力を試そう、神からのしるしを求めようとするのは根本的な勘違いですし、聖書の言葉を並べ立てていてもサタンの思う壺に填まるし、例え人生を成功して終わったように思えても神の心とは全く違う歩みだったということもあり得る、というマタイのメッセージなのです。神の子イエスは自分のために奇跡や楽を求めず、神を無条件で信頼されて、私たちのために十字架に至る苦難の道を歩まれました。そして、私たちにも、神の力を試す切りのない生き方、虚しい生き方ではなく、主に愛されている者として自分を捧げる歩みへと招かれます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2019/10/27 Ⅱコリント13章13... | トップ | ニュー・シティ・カテキズム... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

マタイの福音書講解」カテゴリの最新記事