2014/11/16 ウェストミンスター小教理問答27「キリストは低くなってくださった」 ピリピ二章6~11節
クリスマスには、毎年お祝いをして、イエス様がお生まれになったことを感謝して礼拝をします。教会がいつもしていることです。でも、もう一度、今日、このことを素晴らしいこととして覚えましょう。イエス様は、神の子でありながら、私たちのために人となってくださり、母マリヤから赤ちゃんとなってお生まれになりました。私たちの側からは、「かわいいイエス様、おめでとう。ようこそ!」と言えばいいと思っているかも知れません。でも、神様の側からすれば、これは、本当に測り知れないことです。イエス様が、贖い主として、私たちの預言者・祭司・王としての職務を果たしてくださる、というお話しをしてきましたが、今日の所では、それを「謙卑」、謙(へりくだ)り卑(いや)しくなって果たしてくださったのだ、と言っているのです。
問 キリストの謙卑は、どのような点にありましたか。
答 キリストの謙卑は、[第一に]彼が[人間として]お生まれになり、それも低い状態にであり、律法の下に置かれ、この世のさまざまな悲惨と神の怒りと十字架の呪われた死を味わわれたこと、[第二に]葬られ、しばらくの間、死の力の下にとどまられたこと、にあります。
イエス様は人間になるのも、パッと人間に変わって、天からオトナの格好で降りて来て、スーパーヒーローのように教えたり救ったり奇蹟をして、悪い奴らを倒して、そして天に帰って行くことも出来たでしょう。でも、イエス様はそうはなさいませんでした。
…[人間として]お生まれになり、それも低い状態にであり、…
人間として生まれるのだって大変です。お母さんのお腹に十月十日いるのだって大変ですし、生まれてくる時はお母さんも赤ちゃんもがんばって生まれてくるのです。それからも、オムツを替えてもらい、ハイハイから歩くまで、時間が掛かります。その上、イエス様がお生まれになった家庭は、貧しいマリヤとヨセフの家でした。お金があって、大きな御殿で育ったのとは違って、不便なこと、お腹が空くこともあったでしょう。でも、イエス様は、そういう低い低い所にまで降りて来て、一歩一歩成長されたのです。
C・S・ルイスという人がこう言っています。神が人を救うために人間になってくださったということは、「羊飼いが、羊たちを救うために、自分自身が生け贄になるつもりで、一匹の羊となろうとするようなものです。」いくら可愛いペットのためにでも、あなたはその動物を救うために、人間のカラダを脱いで、動物の一匹になってあげようと思うでしょうか。このC・S・ルイスはもっとスゴいことも言っています。「もし神が人となるということがどのようなことかを知りたいとしたら、あなたがナメクジになったときのことを考えてみるとよい。」いいえ、神様と人間との違いは、人とナメクジどころではありません。宇宙をお造りになった神様が、ちっぽけな地球という惑星の、その上で蠢(うごめ)いている虫けらみたいな人間を、救おうと思われただけでも驚きです。けれども、その私たちを救うため、その動物の一匹になってあげようと思ったのですから、その驚きは言葉に尽くせません。それも、その動物の中でも、最も弱く、貧しく、苛められるような立場になることを選んでくださったのです。それだけではありません。
…律法の下に置かれ、この世のさまざまな悲惨と神の怒りと十字架の呪われた死を味わわれたこと、葬られ、しばらくの間、死の力の下にとどまられた…
イエス様は、神様ですから、人間に律法をお与えになったお方ですが、ご自身が人間となられましたので、律法の下にある者となって、律法にお従いくださいました。私たち人間が、本来、神様に対して果たすべき義務を、イエス様は完全な人として、代わりに完全に果たしてくださったのです。
そして、人間が神様から離れた結果の「悲惨と神の怒りと呪われた死」をも味わってくださいました。イエス様は、私たちが体験する苦しみ、痛みを味わって、知っておられます。罪は決して犯されませんでしたが、罪の結果の呪いは、徹底的に体験してくださったのです。本当に、私たちの痛みを知っておられるお方なのです。
一つ、誤解してはならないのは、イエス様は神である事を止めて人間になられたのではない、ということです。神でありつつ、人間となられました。先のピリピ書に、
二6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。…
とありました。けれども、神であることを止められたという意味ではないのです。イエス様は、神と呼ばれています。でも、人となるということは、神様の本来の栄光からすれば、異常なことです。そのような、不自然なことをイエス様はなされました。神の子でありつつ、人となられた、という神秘を私たちが完全に納得することは出来ません。でも、そうなさったのです。「彼は彼のままで、彼ならざるものになってくださった」と表現した人がいるそうです。まさしく、そういうことでした。そのようにして、イエス様は、私たちの所に降りて来られ、想像も出来ないほどの苦難と犠牲をも厭わずに味わわれて、私たちと一つになり、私たちを神の御国へと引き上げてくださるのです。
今から二百年ほど前、24歳の若さで、ベルギーからハワイに行き、そこでハンセン病という重い皮膚病の患者のために仕えた、ダミアン神父という方がいます。49歳で亡くなるまで、この神父さんは病人たちのために、本当に献身的に仕えていたそうです。でも、患者たちがダミアン神父の話を本当に聞くようになったのは、44歳でダミアンもハンセン病になった時でした。それまで彼は「あなたがたハンセン病患者は」と言っていました。その言葉は患者たちの心には届きませんでした。でも、自分も病気になった時、彼は喜んだそうです。そして、それからは「私たちハンセン病患者は」と言うようになった。そうして、島の人たちは彼の言葉に耳を傾けるようになり、五年後に49歳で亡くなるまで、イエス様を証しし続けて、ハワイでの働きに人生を捧げたのです。
イエス様は、私たちと同じ人となられて、私たちのためにご自分を捧げてくださいました。もう同じになってくださっています。その事に気付きたいと思います。イエス様の愛に心から感謝して、その深い御声を聴いて、従って行きたいと願っています。そうして、私たちも自分のあり方を捧げて、イエス様の愛に生かされていきたいと願います。
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