2020/7/26 マタイ伝8章28~34節「目を背けない」
ここに三回「すると見よ」と繰り返されます。マタイの福音書はこの言葉をよく使いますが、短い箇所でこれほど繰り返すのは、限られた回数だけです[1]。そう考えると、マタイは一体私たちに何を見よといっているのだろう、何に目を向けさせようとしているのでしょうか。まず、
29すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
イエスを見るなりこう言うのです。勿論、28節で
「悪霊に憑かれた人」
というホラー映画の世界のような始まりも、墓場から出てきた、ひどく凶暴だった、という文章も目を引きます。しかし、それ以上にその人がイエスを見て、
「私たちを苦しめに来たのですか」
と言った。多くの人がイエスに会いに来たり、弟子になろうとしたり、その力で病気を癒やしてもらおうとしていた時に、この人はイエスに対して
「私を苦しめに来たのか」
と言うのです。
次に「すると、見よ」が出てくるのは、悪霊どもが、豚の群れに送ってくれと懇願した時、
32イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。
豚の群れが雪崩打って湖に入り込む。凄まじい狂気です。以前から
「ひどく凶暴で」
と言われていましたが、実はここまでの凶暴な力に取り憑かれていた。どれほど苦しかったでしょう。他人には想像もできない、苦しみや孤独や絶望の闇。いつも湖に飛び込んでしまうかわからないような、そんな崖っぷちの思いだったのかもしれません。それなのに、イエスを見て「ああ助けていただける」と思うよりも
「私たちを苦しめに来たのですか」
と叫んだのです。イエスを見ても、苦しめに来たのかと言う。悪霊を信じられないという人でも、こういう心境は理解できるかもしれません。長年の病気とか障害とか依存症とか、様々な問題で苦しみつつも、その解決は拒む。悲しすぎる諦めが、ここで、目を背けずに「見よ」と言われています。
イエスはそんな彼らにも寄り添ってくださってくださいます。拒まれても、諦められても、イエスは諦めずに、彼らに寄り添って、解放してくださったのです。でも、その様子を見たほかの人たちの反応はどうだったでしょう。ここに、三つ目の「すると、見よ」が出てきます。
34すると、見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。
どうでしょう、町中の人がイエスを歓迎するのでなく、お引き取りを願う。これでは、最初のあの二人と同じ態度です。そして、あの二人が、あれほどの苦しみから救い出されて、良かったなぁ、今まで辛かったろう、とは言いません。あの二人を見もしていない。むしろ、失った豚の群れの損を考えたのかもしれません。このままイエスを迎えたら、人を救うために、どんな代償を払わされることになるのかと考えたのかもしれません。それなら、今のままでいい。苦しむ人や困った問題もあるけれど、それは放っておいてほしい。寝た子を起こすようなことはしないでほしい。自分たちは大丈夫だ、問題は目をつぶって、臭いものには蓋をしておこう。今でも、いじめを隠蔽したり、家族の中で虐待を黙認したり、病人や障害者を閉じ込めたり、大企業がリコール隠しをし、国家が基地問題とか少数意見を封じ込めてもみ消す[2]。そこにイエスが王として来られても、迎えようとしない。そのイエスを拒む問題が、悪霊がいるかどうかに関係なく、この世界や、私たちの中にある問題として目を背けるなと言われるのです[3]。
こんな失礼な態度にどうしたでしょう。拒絶したり呪ったりしたでしょうか。いいえ、この拒絶を見据え、この町だけでなく故郷の人、周囲の人、そして私たちの中にもある、イエスに対する壁を取り払って、王となってくださいます。でもそれを無理矢理になさろうとはしない。むしろこの後、ご自身を与えて、十字架に命を捧げてくださいました。そして、この二人に出会うためだけにガリラヤ湖を渡ることも惜しまなかったように[4]、イエスは一人一人に(十把一絡げでなく、私たち一人一人に)じっくり、惜しまず、関わってくださいます。心に壁を気づかずにおれないほど、深く染みついた恐れも受け止めてくださいます。私たちの深い叫びを聞いて、私たちの問題を一緒に受け止めて、諦めていた辛さも、癒やされる。それがイエスの方法でした。イエスの、一人一人への関わりが、神の国を下から作り出していくのです[5]。
日本も同調圧力の強い社会です。そこで私たちが今イエスに出会って、私の問題も叫びも諦めも壁も全部知った上で、この私を愛し、私のためにご自身の死という犠牲も惜しまなかった、と知らされて生きることが、イエスの方法です。マタイの福音書は
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
という言葉で閉じられます[6]。主はこの世界で、隠れたところで、意外な形で今も働き続けています。問題からも目を逸らさず、でもそれ以上に力強く、そこにも働いておられる主からも目を逸らさず、
「主よ、来てください、私たちを新しくし、癒やしてください。私たちをあなたの器として用いてください」
と祈りましょう。
「主よ。主が私たちの心を癒やして、新しくしてくださらなければ、私たちの心は冷たく頑ななままです。あなたが来られて何かをなさる時、私たちにとってそれが苦しみや痛みであることは少なくありません。どうぞ小さな私たちを憐れみ、厳しさに勝る恵みを注いで、支えてください。死の力よりも遙かに強い、命の力で満たして、私たちを互いに結び合わせてください」
脚注:
[1] 「すると見よ」イドゥ。マタイで60回。これほどまとまっては、24:23-26、26:46-51、28:2-20ぐらい。1:20「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」、23「「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」、2:1「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」、9「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。」、13「彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」、19「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。」、3:16「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」、4:11「すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。」、7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」、8:2「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。」、24「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。」、29「すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」、32「イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。」、34「すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。」、9:2「すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。」、10「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」、18「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。」、20「すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。」、32「その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。」、11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。」、10「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。」、19「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」、12:2「するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」、10「すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。」、18「「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。」、41「ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。42南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」、46「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。47ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。」、49「それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。」、13:3「イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」、15:22「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。」、17:3「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」、5「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。」、19:16「すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」、27「そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」、20:18「「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、」、30「すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。」、21:5「「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」、22:11「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。」、23:34「だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。」、38「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」、24:23「そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。」、25「いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。26 ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。」、26:45「それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。46立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」47イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。」、51「すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。」、27:51「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、」、28:2「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」、6「ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」、9「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」、20「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
[2] この問題は、多様な形で出て来ています。沖縄の基地問題、難民問題、かつての「座敷牢」のような場所…。今週は、こんな詩を読みました。
「貧しい発想」
管をつけてまで
寝たきりになってまで
そこまでして生きていても
しかたがないだろ?
という貧しい発想を押しつけるのは
やめてくれないか
管をつけると
寝たきりになると
生きているのがすまないような
世の中こそが
重い病に罹っている
#岩崎航 詩集『点滴ポール』より
[3] 「悪霊の働き」にまゆを潜める人もいるだろう。この人ほど、破壊的な力を宿してはいない。しかし、この町の人も、同じように、この人を見捨てるのだ。「悪霊に憑かれた人」を切り捨て、保身に走るのだ。私たちも、「あの人は救いようがない」「お前は狂っている」と言い捨てることで、言葉や差別によって、人を殺すのだ。そのような破壊力によって、戦争を起こし、虐待・自殺・迫害を容認し、人の心を殺し、多くの命が奪われるのを許しているのだ。コロナ禍でも、誰かを一括りに悪者扱い、邪魔者扱い、「あいつらのせいで」とする事で、排除しようとする。将に、ここに扱われていることだ。
[4] この出来事だけで、またイエスたちは舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、元の町に戻ってくる。この出来事のためだけに、あの死にそうな嵐を通ったようなものでした。その意味でも、ここで何が起きたのか、注意して見ていきたいのです。
[5] そこから救い出されるためには、集団では人は扱えないのかもしれない。イエスは、ここで群衆ではなく、この1人を扱われた。私たちが自分を主に扱って戴き、どの群衆も一括りにせず、その一人一人に、主が近づいてくださるなら、変わるのだと信じる事ではないか。「あの人達はダメだ」ではなく、主が私に良くしてくださったことを語り、その方があなた方にも良くしてくださることを思い描かせることではないか。
[6] マタイ28章20節。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます