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◆【話材情報】 カシャリ!一人旅 東京 千鳥ヶ淵

2020-06-14 09:03:00 | 【カシャリ!一人旅】 旅行雑

【話材情報】 カシャリ!一人旅 東京 千鳥ヶ淵

 私どもでは、経営やコンサルティングに関する情報以外に、日常生活に役に立つような情報、旅行や写真などの会話を潤滑にするために情報などもお届けしています。

 それらの中から、選りすぐりの情報を中心にご紹介して参ります。

 大阪在住のあるベテランの経営コンサルタントが、「東京は緑が多い」と言っていました。東京に住んでいますとそれほど感じませんでしたが、確かに東京には処々に公園もあり、緑が多いですね。

 そのような東京のぶらり散歩の一環をご紹介します。

東京 千代田区  千鳥ヶ淵 


 千鳥ヶ淵は、慶長11年(1606)、江戸幕府が開かれたときに築かれた、江戸城の内堀です。構築当時は、現在分断されている半蔵門土橋まで広がっていて、堀の形状が千鳥に似ていたことからその名が付けられました。

 昭和38年(1963)には、旧江戸城の一部として、特別史跡「江戸城跡」と指定されました。

 

 大阪の人が、大阪城を誇りに思うほど、現代の江戸城は親しまれてはいないかもしれません。

 それはそのはず、天守閣がなく、荒城の月を連想させるほどではないですが、短主格が乗る天守台しかありません。

 一方、江戸城跡も、皇居という視点では、国民の皆さんの注目を浴びるところです。


 春の千鳥ヶ淵は、桜で、散歩道が満員電車ほどではないですが、混み合います。

 昼から「夜店」がでて、焼きトウモロコシやイカ焼きの薫りに誘われます。

 夏は、ボート場として賑わい、秋は紅葉が綺麗です。

 冬は、桜の葉も落ち、周囲に立つ銅像が見えやすくなったりして、それまでとは異なった趣を醸し出しています。

 そのような千鳥ヶ淵を紹介できれば良いのですが、今回は、春の千鳥ヶ淵です。

 首都圏にお住みの方でも知らない面が見つかるかもしれません。

 



千鳥ヶ淵緑道は、
昭和40年(1965)に開通した道路を
昭和54年(1979)に歩行者優先道路として整備されました。

千鳥ヶ淵と桜

 千鳥ヶ淵は、慶長11年(1606)、江戸幕府が開かれたときに築かれた、江戸城の内堀です。構築当時は、現在分断されている半蔵門土橋まで広がっていて、堀の形状が千鳥に似ていたことからその名が付けられました。

 昭和38年(1963)には、旧江戸城の一部として、特別史跡「江戸城跡」と指定されました。


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飛鳥山公園 乾通り紅葉2015 教育の森公園 皇居東御苑 護国寺 新江戸川公園(文京区) 千鳥ヶ淵 

 

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■【きょうの人】 0614 柴田 勝家 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

2020-06-14 08:46:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0614 柴田 勝家 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 柴田 勝家

 しばた かついえ
 大永2年(1522年)?-天正11年4月24日(1583年6月14日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で、下社城址には、柴田勝家誕生地の碑が、愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺に建っています。

 出自は不明で柴田勝義の子といわれますが、確実な資料はなく、おそらく土豪階層の家の出身であるといわれています。

 若いころから織田信秀の重鎮として仕え、尾張国愛知郡下社村を領していました。信秀が死去しますと、子の織田信行(信勝)に家老として仕えました。

 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みましたが、信長との戦いに敗れました。信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、受け入れられました。

 信行が、謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、仮病の信長を見舞った信行は殺害されました。

 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推しました。しかし、秀吉が、明智光秀を討伐したことで実績や発言力を増し、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立した秀吉に押し切られました。(異説もある)

 信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たのみで、勝家と秀吉の立場は逆転してしまいました。

 清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となりました。

 その後、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。

 勢力争いがくすぶり、勝家は、滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗しますが、結果的には、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城にてお市とともに自害しました。享年62歳でした。

 

■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)

 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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■【成功企業・元気な会社・頑張っている社長】020 絹織物「銘仙」の世界ブランド化で“ガチャマン”を再び… 7C13-A613

2020-06-14 07:32:50 | 【経営】 成功企業・元気な会社・頑張る社長

■【成功企業・元気な会社・頑張っている社長】020 絹織物「銘仙」の世界ブランド化で“ガチャマン”を再び… 7C13-A613

 経営コンサルタントを40年余やってきた経験から、すこしでも皆様のご参考になればとお届けしています。

 成功企業・元気な会社・頑張っている社長】は、皆様から寄せられたり、私が支援したり、見聞したりした企業の事例を紹介していますが、お陰様で、毎回拍手をいただいています。

 また、あなたのクライアント・顧問先やお知り合いの会社で、ここで紹介したい企業・団体等がありましたら、是非ご連絡ください。

■ 絹織物「銘仙」の世界ブランド化で“ガチャマン”を再び… 7C13-A613

 ガチャマン景気とは、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発当時に生じた景気拡大現象の呼び名。「(織機で)ガチャンと織れば万の金が儲かる」からガチャマンで、繊維産業の隆盛を表現したものだ。以来、60有余年。今、「ガチャマンを再び」と奮闘しているベンチャー企業が、その名もガチャマンラボ(栃木県足利市、高橋仁里社長)。地元・足利をはじめ北関東特有の伝統的な絹織物「銘仙」を現代風にアレンジした衣料品により、国内はもとより海外市場も開拓し、世界ブランド「MEISEN」を樹立していく。

 同社は高橋社長が2013年に立ち上げた。親戚の織物会社の臨時営業代行として欧州に売り込みに行ったのが、起業のきっかけとなる。「イタリア高級ブランドに販売できたが、その過程で繊維業界の商流に大きな違和感を覚え、そこへのアンチテーゼとして設立した」(高橋社長)。違和感は下請取引の厳しさ、例えば、800万円の加工仕事に1億円の保証を求められるといったリスクとリターンのアンバランスに起因し、「下請けをしない自社ブランドで販売体制を構築して、繊維工場が生き残る適正な商流を示そうと考えた」(同)。

 足利、伊勢崎、桐生、秩父など北関東地域の地場産業として根付き、一世を風靡した絹織物が「銘仙」だ。銘仙着物は斬新な柄と手ごろな価格で、大正時代から昭和前半の“職業婦人”たちに広く受け入れられた。しかし今日、銘仙は和装市場の縮小から風前の灯火といった状況。和装がダメなら洋装でと、銘仙+洋装=「MEISEN」ブランドを国内外に普及浸透させ、地場繊維産業の復権につなげる。それが、同社が掲げるミッションとなる。

 「解(ほぐ)し織り」という手法に基づく銘仙は「独特で繊細な表現が可能で、パリコレ・デザイナーにも高く評価されている」(同)。高評価の証しとして、エルメス・クリエイティブチームとの共同プロジェクトが進められたりしている。国内では、銘仙&職業婦人のストーリー性を生かし、30代、40代の自立した働く女性をターゲットにした製品展開を図っていく。一連の取り組みは関東経済産業局「絹のみちプロジェクト」の一環として立ち上がった経緯があり、有力デザイナーらとの協業も進んでいるところだ。

 同社では現在、国内外でテスト販売を繰り広げている段階で、来年以降、急カーブで事業を伸ばす青写真を描いている。高橋社長は、育児用品メーカーの財務から社会人生活をスタートし、「大学の先輩がベンチャーの旗手、時代の寵児となったのに触発された」(同)ことから独立、ラーメンチェーンで成功するも飽き足りなくなりトレーダーとしてデリバティブ取引に打ち込む…と多彩なキャリアを積んできた。大病を患ったりもした。40歳そこそこの若さと豊富な経験が、古くて新しいMEISEN事業にぴったり符合する。

 

  出典: e-中小企業ネットマガジン掲載承認規定に基づき作成

 

 
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