ずっとスマホでしか「いいね!」「応援」「続き希望」「役だった」のボタンがなく、ほとんど記事投稿はパソコンで行っているわたしには、パソコンでほかの方のブログを見たときもアクションボタンがついていたらなあ、と思っていたのですが、今日から記事の下の部分にそのボタンが表示されるようになっていました。
以前、パソコンで見る記事の下にはフェイスブックやツィッターのボタンはありましたが、その二つをしていない私には読み逃げというか、コメントを残せないときでも何かリアクションが出来たらいいなと思っていたのです。コメントを残すのはなかなか出来なくても、記事を拝見したときの自分の気持ちが少しでも残せたらなと。
ただアクションが4個しかないので、記事の内容によっては、どのボタンを選んだらいいのかと迷うこともあります。
フォローしているブロガーさんの記事は多岐にわたっていて、自分には無いものに触発されることがしばしばです。
いつもコメントをくださっている方がお休みに・・・そういう時は大丈夫かしらと思います。以前もそういう方がいてすごく心配したのですが、何ヶ月も経ってから更新されていたのを見てホッとしました。今回もゆっくりでいいから再開されることを願っています。
ここでの繋がりも長い方もいれば新しい方もいます。15年という年月はほんとにあっという間でした。2004年の11月末、ドキドキしながらのgooブログ開設でした。ただ日頃の思いを淡々と吐き出せる場が欲しかった、辛い時期を引きずって、それでも前に進もうと思える自分がいて、自分で自分を励ましていました。そして、死と隣り合わせだった時間を乗り越えて生かされたのだということを大事にしていきたいとも思ったものでした。
だんだんその意識が薄れ、こうして生きていることがずいぶん当たり前に感じてしまって・・・
あの頃の自分に戻らなくては、と思います。助かった命を丁寧に生きていかなくては、ね。
※※※
命とは君たちが持っている時間である 日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)月刊誌『致知』
………………………………………………
僕はいま人生において最も大切だと思うことを、次の世代の人に伝えていく活動を続けているんです。
僕の話を聞いた若い人たちが何かを感じ取ってくれて、僕たちの頭を乗り越えて前進してくれたらいいなと。
その一つとして僕は二年前から二週間に一回は小学校に出向いて、十歳の子どもを相手に四十五分間の授業をやっています。
最初に校歌を歌ってもらいます。
前奏が始まると子どもたちの間に入って、僕がタクトを振るの。
すると子どもたちは外から来た年配の先生が僕らの歌を指揮してくれたというので、心が一体になるんですね。
僕が一貫してテーマとしているのは命の尊さです。難しい問題だからなかなか分からないけれどもね。
でも
「自分が生きていると思っている人は手を挙げてごらん」
と言ったら、全員が挙げるんです。
「では命はどこにあるの」って質問すると、心臓に手を当てて「ここにあります」と答える子がいます。
僕は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって、このように話を続けるんです。
「心臓は確かに大切な臓器だけれども、これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。命とは感じるもので、目には見えないんだ。君たちね。目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。
空気見えるの?
酸素は?
風が見えるの?
でもその空気があるから僕たちは生きている。このように本当に大切なものは目には見えないんだよ」と。
それから僕が言うのは
「命はなぜ目に見えないか。
それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。
どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。
さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」ということです。
僕の授業を聞いた小学生からある時、手紙が届きましてね。そこには
「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間瞬間をどう入れるかが私たちの仕事ですね」と書かれていた。
十歳の子どもというのは、もう大人なんですよ。あらゆることをピーンと感じる感性を持っているんです。
僕自身のことを振り返っても、十歳の時におばあちゃんの死に接して、人間の死というものが分かりました。
子どもたちに命の大切さを語り続けたいと思うのもそのためです。
───────────────────
※※※
このような授業を受けることが出来た子供達は幸いですね♪
以前、パソコンで見る記事の下にはフェイスブックやツィッターのボタンはありましたが、その二つをしていない私には読み逃げというか、コメントを残せないときでも何かリアクションが出来たらいいなと思っていたのです。コメントを残すのはなかなか出来なくても、記事を拝見したときの自分の気持ちが少しでも残せたらなと。
ただアクションが4個しかないので、記事の内容によっては、どのボタンを選んだらいいのかと迷うこともあります。
フォローしているブロガーさんの記事は多岐にわたっていて、自分には無いものに触発されることがしばしばです。
いつもコメントをくださっている方がお休みに・・・そういう時は大丈夫かしらと思います。以前もそういう方がいてすごく心配したのですが、何ヶ月も経ってから更新されていたのを見てホッとしました。今回もゆっくりでいいから再開されることを願っています。
ここでの繋がりも長い方もいれば新しい方もいます。15年という年月はほんとにあっという間でした。2004年の11月末、ドキドキしながらのgooブログ開設でした。ただ日頃の思いを淡々と吐き出せる場が欲しかった、辛い時期を引きずって、それでも前に進もうと思える自分がいて、自分で自分を励ましていました。そして、死と隣り合わせだった時間を乗り越えて生かされたのだということを大事にしていきたいとも思ったものでした。
だんだんその意識が薄れ、こうして生きていることがずいぶん当たり前に感じてしまって・・・
あの頃の自分に戻らなくては、と思います。助かった命を丁寧に生きていかなくては、ね。
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命とは君たちが持っている時間である 日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)月刊誌『致知』
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僕はいま人生において最も大切だと思うことを、次の世代の人に伝えていく活動を続けているんです。
僕の話を聞いた若い人たちが何かを感じ取ってくれて、僕たちの頭を乗り越えて前進してくれたらいいなと。
その一つとして僕は二年前から二週間に一回は小学校に出向いて、十歳の子どもを相手に四十五分間の授業をやっています。
最初に校歌を歌ってもらいます。
前奏が始まると子どもたちの間に入って、僕がタクトを振るの。
すると子どもたちは外から来た年配の先生が僕らの歌を指揮してくれたというので、心が一体になるんですね。
僕が一貫してテーマとしているのは命の尊さです。難しい問題だからなかなか分からないけれどもね。
でも
「自分が生きていると思っている人は手を挙げてごらん」
と言ったら、全員が挙げるんです。
「では命はどこにあるの」って質問すると、心臓に手を当てて「ここにあります」と答える子がいます。
僕は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって、このように話を続けるんです。
「心臓は確かに大切な臓器だけれども、これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。命とは感じるもので、目には見えないんだ。君たちね。目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。
空気見えるの?
酸素は?
風が見えるの?
でもその空気があるから僕たちは生きている。このように本当に大切なものは目には見えないんだよ」と。
それから僕が言うのは
「命はなぜ目に見えないか。
それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。
どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。
さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」ということです。
僕の授業を聞いた小学生からある時、手紙が届きましてね。そこには
「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間瞬間をどう入れるかが私たちの仕事ですね」と書かれていた。
十歳の子どもというのは、もう大人なんですよ。あらゆることをピーンと感じる感性を持っているんです。
僕自身のことを振り返っても、十歳の時におばあちゃんの死に接して、人間の死というものが分かりました。
子どもたちに命の大切さを語り続けたいと思うのもそのためです。
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このような授業を受けることが出来た子供達は幸いですね♪