心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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エゴノキ

2016年06月07日 | 母のこと
玄関先に置いてある鉢植えを見て母が言う。
「まさかこれに花がつくとは思わなかったよ」と。
「なんの木なの」と聞く。
「エゴノキだよ。前にすごく立派な鉢を育てていたんだけど、風除室においていたら一晩でだめになってしまって。あのときはがっかりしたよ」
「でももう無いんでしょ」
「それが、エゴノキの実はパンっとはじけて飛ぶからもしかしたらここにも飛んできたんだろうな。でもまさかこの寄せ植えに飛んできていたとはなあ」

去年は全然花がついていなかったので、まさか花がつくとは思っていなかったらしい。
今年はぶらんぶらんとたくさんの花がついている。
まるで子供ができたみたいに嬉しそうな顔をする母。

あれから数日経った。あのときつぼみだらけだったエゴノキが今日はずいぶん花が開いている。下を見て恥ずかしそうに咲いているのが可愛らしい。
母が風除室の折りたたみ椅子に座ってなにやら見ている。
「何見てるの?」
「ん~、ほら、前にエゴノキを育てていたって言ったろ。これだよ」
そこには母が以前育てていた鉢ものの写真がたくさん入っていたアルバムがあった。まだ手も今ほど不自由ではなかった頃のことだ。花の好きな母のために離れた所にいる叔母が持ってきてくれた鉢がたくさんあるのだと説明していた。叔母はよく母の日やクリスマスにも鉢植えを送ってくれたのだそうだ。その中のいくつかが今、母の庭に残っている。地植えして太い幹になったものもあるらしい。姉と妹どちらも花が好きなので何をあげれば喜ぶかわかるのだろう。

叔母がくれた鉢植えの写真を見ていた母が、ふと寂しそうな顔をした。
もうずっと叔母と会っていない。叔父が元気なときには年に一度は必ず母の元に運転してつれてきてくれたものだ。その叔父が旅立ってから一度も母の元に来ていない。最初は今はまだ無理だろうなと話していた母だが、だんだんと「早く来ないと会えなくなってしまうかもしれない」と自分の体を見て話すようになってきた。寄る年波に不安を感ぜずにはいられないのだろう。
いつも会うと母と叔母の笑い声が絶えなかった。父と叔父はそれをニコニコしながら見ている。そんな光景があった。
もう父も叔父もいない。

母は妹と互いの夫のことを語り合いたいのかもしれない。
わたしが知らない四人の思い出、たくさんたくさんあるのだろう。
わたしに語っても「そうなの? そういうことがあったんだぁ」という相づちになるけど、叔母だったら「あ~! そんなこともあったねぇ。あのときはこうだったよね」と話が広がっていくだろう。
だからときどき思い出したように「来ないのかねぇ」と言う。
母が行くことが出来ればいいのだけど、長い距離の移動は今の母には困難だ。来てもらうことしかできない。わたしが迎えに行こうか、と言えばそれはだめだと言う。
きっと叔母も会いたいとは思うのだろうけど、まだ悲しみが癒えないのかもしれない。

今年のうちに会えるといいね。
エゴノキみたいに思いがけない喜びがある日突然やってくる、その日を夢見て母は今日も風除室の椅子に座り、空を見上げている。





失敗、失敗。母が話すのを聞いて、てっきりエゴという名前の木だとばかり思っていた!
エゴノキという名前なんだね。今、確かめて知った、なんというドジ!
穴があったら入りたいというのはこのことだ。が~ん…



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