渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

二王の良刀

2014年10月11日 | open

周防国二王の刀は、南北朝の騒乱および戦国時代における実用性が
高かったために損耗したからか、絶対量としてはかなり少ない。
同じ切れ物刀工群である豊後高田(現在の豊後高田市ではなく旧高田郡
鶴崎高田村、現大分市鶴崎
という場所、大野川と乙津川の中州地帯)の
刀剣は結構数が残っているが、二王は多くはない。

(豊後国高田-現大分市鶴崎)



二王は鎌倉期から江戸期幕末まで続いた周防国(現在の山口県東部)
の刀工群だ。

古刀期の二王鍛冶は、大別すると三か所の鍛刀地が比定されている。

<古刀期-鎌倉~安土桃山-の周防二王鍛冶>
*玖珂(くが。山口県岩国市玖珂町)・・・清綱。
*仁保(にほ。山口県山口市仁保)・・・清綱、清久、清長、清平など。
*吉敷(よしき。山口県山口市吉敷)・・・清景、清永、清貞、清重、清忠、清左、清次、清勝など。
※新刀期に入ると、領主毛利家の萩移動に伴い、萩に転出した二王鍛冶、また下関に
  転出した二王鍛冶が新刀期の二王一派を担って盛んに作刀した。

周防国二王の大磨り上げ無銘のかなり出来の良い一刀がある。

元々は延寿と極められて、肥後細川家あるいは細川家縁者から伝え
られたものらしい。
なぜその伝来をそうといえるかというと、時代肥後拵が付属している
からだ。時代肥後拵で九曜紋とくれば、細川当主もしくは縁者の差し料
以外とは考え難い。

肥後拵でも、さらに鮫巻カイラギ鞘などの場合は、藩主および藩主一族
にのみ
許された限定拵だった。

大磨上無銘(二王)




映りが出ているのがよく判る。




大磨り上げ無銘ながら二王と極められたこの一刀、大磨り上げとなっても
長さ二尺三寸弱ほどの定寸がある。
時代拵も揃い、重ねも厚く、刀身極めて健全。

素晴らしい一刀だ。
眺めていると、この一刀を巡ってどんな物語があったのだろうと思いを
馳せる。
是非、未来に伝え残してほしいと願う一刀なり。


お求めはこちらから。

 美術刀剣 刀心 「大磨上無銘(二王)」

メインサイト→ 刀心


二王の刀

2014年10月11日 | open

私の差し料二代目小林康宏と
同じく、普段は人目に晒さな
い刀がある。

人に見せないのは秘蔵品だか
らだ。

本当ならば、自分の差し料や
家伝の秘刀などは本来人に見
せる
ものではない。
だが、思うところあって一部
をここに紹介する。






二王の一刀である。応仁元年
(1467)の作。

二王とは鎌倉時代から周防の
国(現在の山口県)に興った
刀工群の一派だ。

以下、福永酔剣著『日本刀大
百科事典』から抜粋紹介する。

なお、参考文献は多岐に亘る
(39点)ので、ここでは割愛
する。


【二王派】
 清綱を祖とする周防の刀工
群。二王派を、初代清平・二
代清真・三代清綱
とする説、
または初代清真・二代清平・
三代清綱とする説とがあるが、
初代・
二代の作は現存しない
こと、および二王という派名
の起源から考えて、清綱
を二
王派の祖とするのが、現在は
通説になっている。

 二王という派名の起源につ
いては、二王堂が火事のとき、
二王像を繋いで
あった鉄の鎖
を、清綱の刀で断ちきり、仁
王像を助け出したから、とい
う伝説
がある。仁王像を鎖で
繋いであったのは、その仁王
像は有名な運慶の作で、
夜な
夜な脱けでて、住人をおびや
かすので、鎖で繋いであった
ともいう。ただし、
鎖を切っ
たのは、清平の刀という異説
もある。その二王堂の所在に
ついては、
杉森説が最も有力
であるが、そのほか杉村説、
西王寺説、山口の琳聖太子説、
山口の堂前町説、吉敷郡木崎
説、吉敷郡仁保説、吉敷郡二
堂説、玖珂郡鞍掛城付近など
がある。
 清綱の刀銘からみると、建
武二年(一三三五)の作に、
「防州玖珂住」とあるから、
杉森も周防国玖珂郡内に求め
ねばならぬ。玖珂郡は玖珂郡・
柞原(くはら)
郷など、十か
郷に分かれていた。この柞原
郷は久原郷とも書き、のち椙
杜郷
または杉森郷と改められ
た。江戸中期になると、旧に
復して久原と改められ、
さら
に上久原村と下久原村に分け
られた。現在の玖珂郡周東町
上久原と下久
原がそれである。
下久保に千束という集落があ
る。昔の山陽道の南側にある

部落で、ここに清綱が淬刃に
使ったという古井戸が今も残
っている。
 
二王堂は現在見当たらないが、
とにかく二王の鎖を切断した
のが評判になって、
それまで
宗三郎、惣三郎、悪太郎など
と呼ばれたのを、二王三郎と
呼ぶように
なったという。二
王という名前からであろうが、
江戸初期には、二王清綱の刀
狐つきや、瘧(おこり)つ
まりマラリア病を治す、とい
う迷信さえ生じた。

 二王派は鎌倉期から南北朝
期までを古二王派、室町期を
末二王派、江戸期を
新刀二王
派と、三期にわける。古二王
派としては清綱各代のほか、
清久・清景・
清長などと、清
の字を冠するが、清綱以外は
現存刀が稀れ。地鉄は杢目肌
詰ま
るが、柾目肌が少しまじ
る。刃文は沸え本位の直刃に、
ほつれや小乱れまじり、
刃文
より地に向かって、箆影の出
るものがある。横手のかなり
下から焼き幅が
広くなり、小
丸鋩子の棟方に寄るのが見所。

 末二王派では清の字を冠し
た主流派のほかに、正・政・
勝など、清の字以外を
冠した
傍系も多くなった。作風とし
て、剣形は反りの少ない打ち
刀風になり、地鉄
は地沸え消
え、刃文は匂い本位の直刃が
主で、互の目乱れも焼く。中
には彫刻
の巧みなものも出た。
切れ味は良い物が多く、清春
や清真の素晴らしさは『真書

太閤記』にも載っている。
 新刀二王派は、藩主毛利家
が長州萩に移ったのに伴い、
萩に定住したものと、
さらに
元禄(一六八八)ごろ、長州
豊浦つまり現在の下関市長府
へ再転したもの
と、二派に分
かれた。そのうち、長府へ再
転した玉井方清は、江戸へで
て法城寺
正弘に師事しただけ
あって、二王派の伝統的な直
刃のほかに、丁子乱れや互の

目乱れなど、新刀風の華美な
刃文も焼いている。


我が家の二王は応仁元年
(1467)の作である。

皆様も小学校で習っただろう
が、10年に亘る応仁の乱が開
始された年だ。

応仁の乱は、室町幕府八代将
軍足利義政の継嗣争い等が主
要因となり、幕府
管領(かん
れい)家であった細川勝元
(1430~1473)と山名持豊
(1404~1473)
らの有力守護
大名が争い、九州などの一部
を除く全国地方に拡大した内
乱のこと
である。
この応仁の乱のために幕府・
守護大名の権勢が衰退し、以
降100年以上
におよぶ「戦国
時代」に突入した。
この応仁の乱により、京の都
は全域が灰になっ
た。洛中に
おける市街戦も多く行なわれ
たからだ。現在のアフガンや
シリア内戦で
町が壊滅したよ
うな状態だったことだろう。
都市全体が殺戮の現場となっ
たのが
応仁の乱だった。尤も、
江戸幕末には長州藩が京都全
域を焼きつくすテロ攻撃を

過激派浪士と共に計画してお
り、あまつさえ天皇をも身柄
拘束誘拐しての政権
樹立を企
てていた。それを阻止したの
が会津中将御預の京市中警察
の新選組
だった。

新選組の局長近藤勇は、最後
には幕臣の身分となっていた。

だが、戊辰戦争の際に下総国
流山で西軍に包囲され、越谷
の新「政府」軍に
出頭し、板
橋の刑場で斬首となった。

その時、近藤の首を刎ねたの
は岡田家家臣の横倉喜三次で、
近藤の為に
遣い手である横倉
が急きょ薩摩藩の意向により
召し出されたのだった。

その斬首において、近藤は己
の差し料である脇差にての介
錯を依願した。

横倉はその近藤の差し料にて
近藤の首を打った。切腹では
なく斬首として。

その一刀は二王の作であった。
現在、その脇差は横倉家の子
孫によって大切に保存されて
いる。

新選組慰霊の会の墓参の際に
も、横倉家の御子孫はひっそ
りと参加されている。
横倉家の御子孫は、
今でも、
近藤氏の命日には線香を灯し
手を合わせることを欠かさな
いと伝える。
こういう現実をみると、武士
の心は、心ある武家の血脈に
よって、まだそこはかとなく
生きているところには生きて
いるのだと静かに感じる。

私は年に一度、都内のある寺
の住職に請われて短刀を御手
入に伺っていた。
それは近藤勇の遺品の短刀だ
った。
新「政府」軍の咎めを恐れて、
斬首された近藤氏の亡骸を弔
う寺はどこもなかった。
坊主の性根ここに見たり、な
のであるが、それほど「官」
軍の恫喝は熾烈だったのだろ
う。上野の御山でも、東北の
各戦線でも、幕軍戦士の遺体
を葬ることは固く禁じられ、
亡骸は放置されたままだった。
それを犬が喰らい、野鳥がつ
つき、やがて腐敗し、見るも
無残な状況だったということ
は多くの記録に残されている。
そういうことをするのが武士
か。武士なのか。薩長土肥藝
の新政府軍、つまり天皇を奉
じる官軍のやることなのか。
「死ねば皆仏ではないか」と、
ある寺の住職が新「政府」軍
の弾圧も恐れずに近藤氏を弔
った。
戦火の中で、人間の大切な歯
車が狂う戦争という中でも、
人の心は死んではいなかった。
私の先祖は新「政府」軍側で
あったが、私は幕臣近藤氏の
霊を慰霊し、近藤氏の無念の
思いを慰撫するために伺候す
る心持ちにて、しばし瞑目し
ながら、その近藤氏の遺品の
短刀を入念に手入れさせても
らっていた。
近藤氏をねんごろに弔った住
職の末裔の現住職は団塊の世
代の東大出身で人道に関する
見識も深く、とても穏やかな
面持ちでそれを見守っていら
した。

我が家の二王には二王独特の
「二王のヘラ影」という映り
が明瞭に出ている。
(見えない方は、凝視でなく
ボウッと見てください。刃か
ら鎬にかけての涙型の明暗の
鋼の変化と色の違いが浮かん
でくると思います)

応仁の頃には、まだ南北朝あ
たりまでと同じ鋼を使ってい
るのだろう。
この一刀は、類型としてはそ
の後の末二王に属するが、時
の流れは間断なく続いている。
パッと瞬時に時代が変わるわ
けではない。
この刀の鋼は非常に古く清涼
だ。肌がつむのではなく杢が
強く出て、柾目がかるのはや
はり「末二王」に属する鍛え
の変遷がみられる。
ただ「末」というと戦国末期
をイメージしがちで、「末二
王」というよりも、「中二王」
と呼称した方が刀剣史を俯瞰
した場合、印象に合致する
ように個人的には思っている。
地、鋩子、焼刃の状態はまさ
しく二王の特色を現している。

前時代の名残か、切先は伸び
ごころだ。


二王の刀は切れ味が良いこと
でも知られ、二王堂の鎖を裁
断したという伝説が残ってい
る。

だが、いくら二王だからと私
はこの刀で鎖を切り試しして
みることなど、絶対にしない。
天地がひっくり返ってもしな
い。私の中で、そうした行為
を律する何かが働く。
仮に鎖に切りつけて、鎖が切
れたとて、それが何であるの
か。
「やあ、切れた」ということ
でしかない。
あるいは、切れずにいたら何
とするか。
「ああ、切れなかった」とい
うことでしかない。
その後に訪れるのは、ただ単
に現代人の猟奇的な好奇心と
いう忌むべき個人主義的な興
味本位の趣味心に対する満足
度がどうかというくだらない
ことでしかない。そして、文
化遺産は損耗する。
武士が存在した時代に武士が
持っていた日本刀は、興味本
位で現代人の遊びに供するも
のでは決してない。たといそ
れが「稽古」などという名目
でどんなにこねくりまわした
屁理屈にて偽装していてもで
ある。
武士時代の遺品である日本刀
は、適切に保存して次世代に
伝え残すことこそ肝要であり、
それが現時点で生きている己、
生き続ける刀に出会えた己が
果たす義務だと私は思ってい
る。

ましてや、この一刀は、ある
広島藩浅野家中の士が代々腰
に帯びた刀だ。
その遠い先祖たちに思いを馳
せることこそあれ、興味本位
で大層な理由をこれみよがし
に取ってつけてこの一刀を破
壊する行為など、士たる者の
末孫は絶対にしないのである。