渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

呪われた刀と鉄砲

2021年03月17日 | open
うちの先祖筋の家には嘘かまことか、
「呪われた刀」というものがある。
備前物の大出来の刀剣なのだが、長年小学
校の校長をやっていた故人である先祖筋
の家が持っていた。
請われて他人に譲るが、そのたびにその
譲り受けた先の家にかなりの不幸が来る。
そして戻って来る。
さらに家を出る。また戻る。
それが何度も何度も繰り返される。まるで
「凶銃ルガー」の小説のように。
何家もがその刀を巡って、文字に書けない
不幸のどん底に突き落とされた。
私が1973年時にその刀を将来貰い受ける
を所持者の明治初頭生まれのそのじっ
つぁまは約したが、その家の嫁や姑、さら
にはうちの祖母、伯母や叔母、伯父たちに
猛反対された。
曰く「あの刀はあの家から出てはならぬ」
との事だった。
そんな赤江瀑の『オイディプスの刃』の
刀剣青江次吉のような話があるもんかと
今なら思うのだが、当時は真顔で周囲が
反対した。
結局、現在に至るまでも、その備前刀は
その家に封印してよそには出していない
ようだ。
登録証もなかごも私は50年近く前に現認
した。
観ていると落ち着かぬ、燃えるような備前
刀だった。剣相がよくないね、ありゃあ。
観ていて心がざわつく刀は良くない。
その手の刀を持っても、いい事ない。
刃文の事を「刃ばみ」と呼ぶ三原の方言
は、その時に刀を観せてもらった1973年
に知った。
刀剣の本格的な学習はその前年の1972年
小6時の春先から東京において開始し
たが、地方独特の呼称については全く不知
った。
 
それよりも、その銃をくれと私は言った。
幕末の藩政改革で武士を全員銃士に編成し
直したのだが、その戊辰戦争で使用した
小銃がその家に残っていたのだ。完動
状態
で。
そっちをくれ、とじいさまには言ったの
だが、それは苦笑いで流された。
それにも登録証があり、1973年当時で
1867年以前の状態を保ったままの小銃
だった。
あまり長くなかった記憶がある。
ただ、持たせて貰うと軽くは感じなかっ
た。ミニエー銃だったかどうかは記憶に
ない。
 
幕末、広島藩浅野家は「官」軍側であり、
装備は悪く無かった。
藩の軍触れでも甲冑は重いので持参する
なとの通達が出ている。完全に機動性を
重視した近代歩兵、ライトインファント
リーとして侍士を組織再編している。
 
戊辰戦争で戦死した広島藩士高間省三。
二十歳で東北戦線にて大量に被弾し死亡。
若き砲兵隊長だったが、彼の父は藩の鉄砲
奉行だった。
装備は当時最新式だ。ローカットブーツで
踏破性を確保したり、最新式リボルバーを
サイドアームとして装備している。
刀剣は野戦用の軍陣拵で固めている。


広島藩浅野家中は、幕末に軍役では全員
が剣士から銃士に編成し直された。
軍制も第一大隊‥‥、というような編成
されている。
もはや、古式火縄砲術など出る無し(笑
鉄砲遣いの砲術指南番の家筋としては、
まことに以ってトホホだったる有様にて
面目次第もござらぬ仕儀にて御座候。
てな感じ。国産最高性能のカラクリ構造
持つわが外記流砲術にあっても、もはや
時代遅れなりし哉。嗚呼、哀しや古式
砲術。
 
ただ、戦国時代、日本は世界最大の軍事
大国であり、世界一銃器を保有していた
国であった事は今の日本人たちはあまり
知らないようだ。
織田信長の時代から、すでにイクサの勝敗
の趨勢は火力如何となっていたのだ。
世界征服を企み、南米を制覇した世界の
支配者スペインが日本侵略を断念したの
は、日本には武士がいたからである。
これはスペイン国王にあてた先遣隊の報告
が残されているので明らかだ。日本に攻め
込むと、逆にスペイン本国が確実に日本に
滅ぼされる、との内容だ。
そうした勇猛果敢でパイレーツやバイキン
グよりも野蛮な日本の武士たちが世界一の
銃器を膨大な数で保有していた。
イクサの趨勢は火力で決まる。
これは、450年後の現代でも何ら変わら
ない。
銃器、おそるべしなり。

⇒ 幕末の小銃について

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