渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

<歴史散歩> 謎の鬼の石碑 ~三原市宮浦~ (2011.6.18記事再掲)

2024年12月01日 | open

三原市内西部に以前から気に
なっていた謎の石碑がありま
す。これはもう50年程前から
気になっていた。
新幹線の高架下の隣りの町内
会館の敷地にそれはあります。


石質と刻まれた文字から江戸
時代もしくは新しくとも大正
時代までに建てられた石碑と
思われます。
北東・南西・北西・南東にき
っちりと向いていて、四面に
それぞれ文字が彫られていま
す。

生前の父に訊いても、伯父に
訊いても、この石碑の存在す
ら知りませんでした。

刻まれた文字が何かとても意
味深なのです。
北東と南西で同じ言葉、北西
と南東で同じ言葉が刻まれて
います。

北東側


南西側


刻まれている文字は変体仮名
というものに似ています。
江戸時代の一般的な仮名文字
で、大正時代くらいまで使わ
れました。
いわゆる、江戸時代の「読み
書き」とはこの変体仮名が読
めることをいいます。
相続人確定などの法律業務の
仕事を進める時には、戸籍簿
に書かれたこの変体仮名の解
読が不可欠です。なぜならば、
昔の人の名前(特に女性)な
どは変体仮名で書かれている
ことがとても多いからです。

この謎の石碑に書かれた文字
を解読してみましょう。
まず、北西・南東面は「南無」
と刻まれています。

気になるのが北東・南西側の
恐ろしげな言葉。

「鬼」の後に続く二文字が
変体仮名に見えます。
平仮名の「つ」に見える二
文字目は「川」の変体仮名
だとしたら「ツ」に見える。


連続すると「鬼(き)・川(つ)」
となります。
そして最後の文字。
これは最初私は「祢」に見え
ました。
「祢」ならば「鬼・川・祢」
で「キツネ」と読むことが
できる。
でも、どうにも左の偏が「弓」
のようにも見えます。
するとそれだと「弥(み)」です
が、実際の石碑を指でなぞる
と偏はさんずいのようでもあ
り、さすれば「流」とも読め
ます。
しかし、粗見では祢でも流で
もなく弥にも読める。
仮に「弥」であるならば、漢
字の意味には以下があります。
弥:あまねし、いや、いよいよ、
とおい、ひさ-しい、ひさし、
ひろ、みつ、や、よ、わた-る、
わたる

ふと閃きます。「わたり/
わたし」だろうか、と。
となると「鬼(き)の川(つ)弥
(わたり/わたし)」となり、
鬼の通り道という意味が浮上
する。
しかし、石碑の最後の文字が
「流」で「ル」と読むとする
と、「鬼(キ)・川(ツ)・流(ル)」
で、意味不明になってしまう。
これは更なる考察が必要とな
ってきました。

進めます。

いずれにせよ、鬼門に当たる
北東の面と裏鬼門に「鬼〇〇」
の文字を配しています。
明らかにそこにこの地の謎を
解く鍵が隠されているように
思われます。
この場所は三原城下の八幡宮
の宮の下の浦(沿岸の海)であ
った場所であり、江戸期に新
開として拓かれた後もデルタ
地帯でした。

私は、石碑の鬼門・裏鬼門方
角の文字は第三文字目を「弥」
と読み、「鬼川弥」で「おに
のかわわたし(わたり)」も
しくは「おにのつわたし(わた
り)」あるいは、「きのつわた
し(わたり)」、さらに一歩解釈
を進めて、「きつみ=鬼つみ」
と読み解いたのですが、どう
やらそれはまるで違うようで
す。
この石碑は「鬼門除(きもん
よけ)」と「南無」と彫られ
ているのが正しい読みです。
よく考えたら、変体仮名では
なく、単なる草書書きだった
というオチ(笑

日本神話に登場する海の神で
ある綿津見(わだつみ)、海神
(わたのかみ)は元来「海(わた)
つ霊(み)」と記しました。
それと同じように「鬼(き/おに)
つ霊(み)」なのではと読み解い
たのですが、それは誤り。
それに「わたし(=渡し)」をか
けて「鬼の通り道」として霊
を祀り鎮め、鬼門と裏鬼門の
方位に鬼への道標として「鬼
川弥(きつみ)」と刻んだのでは、
と私は読んだのですが、それ
はあまりにも推測が過ぎたよ
うです。
石碑は単純に「南無」「鬼門
除」と彫られていたのでした。
ただし、なぜここの地点に
建立?というのについては謎
が残ります。

鬼門とは、北東(艮=うしと
ら。丑と寅の間)の方位のこ
とで、陰陽道では鬼が出入り
する方角であるとして万事忌
むべき方角とされています。
また、鬼門とは反対の南西
(坤=ひつじさる)の方角を
裏鬼門と呼び、この方角も忌
み嫌われます。
逆に鬼門は神々が通り抜ける
方角、あるいは太陽が生まれ
る方位(生門)であるために、
清浄の気を保たねばならぬと
いう考えも古代にはあったよ
うです。
日本の建築物はすべてこの方
位の考えをもとに方角を定め
て建築されて来ました。中国
から来た考え方ですが、この
考えによって建造物の方位を
決めるのは沖縄を除く日本独
自の文化のようです。

さて、この石碑は、鬼門と裏
鬼門の方角に「鬼川除」、北
西・南東には「南無」とある。
明らかに宗教的な意味を持っ
た石柱でしょうが、市内の古
老に尋ねても誰も知らない。
なぜこの場所にあるのかは皆
目不明の謎のままです。
この石碑は備後国と安芸国の
国境のベルト上にありますの
で、設置には何らかの意味が
ある筈。

同じ備後・安芸国境=ボーダ
ーのライン上に、大正時代に
建てられた石碑があります。
鬼の石碑から1キロ程南西の
ライン上の街道沿いです。
県立大学下の途中にあるその

石碑には「是従東 備後国」
「是従西 安芸国」と刻まれ
ています。
南側面には大正時代の建立と
あり、「是従東 備後国御調
郡西野村」「是従西 安芸国
豊田郡長谷村」と刻まれてい
ます。
現在、県立広島大学に続く低
い丘の道の途中にあります。
前述した鬼の石碑やこの旧国
境石碑の辺りは、江戸時代に
は一面に広がるデルタ地帯で
した。

三原とは三つの原のことで、
湧原(現三原市中之町)、駒ケ
原(現三原市駒ヶ原町)、小西
原(現三原市西野)の谷に流れ
る小川で出来た扇状地の平地
が寄り添うようにしてあった
ことから「三原」と呼ばれる
ようになったといわれます。
行政サイドもそうした説明を
している。
しかし、これには疑問がある。
実際の歴史では、戦国末期に
三原城が築城されて初めて三
つの原が合流したからです。
それ以前には三原という地名
の由来とされる「三つの原が
合わさった場所」は無かった。

三原は猫の額のようなとても
狭い土地です。
近隣に御年代古墳をはじめと
する縄文・弥生・古墳時代の
遺跡が数多く残されており、
その後、大和~平安時代かけ
ても畿内と九州を結ぶ海路の
拠点が糸崎にあります。
四国と連絡する海上交通の要
衝としても存在しました。
潮待ちの保水地として岬の糸
崎が活用されていました。
三原駅=三原城に一番近い山
の頂上には、中世に山名氏が
築城した城跡があります。

う~む。謎解きの歴史散歩は
面白い。
つーか、鬼の石碑のこと誰も
知らないの?
誰かおせーて。
市の教育関係担当者に照会し
て尋ねても詳細不明なのよね。


 

 


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