田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

懐かしの京都東山を歩く(上)

2016年11月12日 | 京都

 先月に東京へ行った帰り、京都に寄りました。東山一帯や学生時分に下宿していた町など、思い出の場所を散策しようと思い立ちました。私の小さな感傷旅行です。ですからこの記事は京都案内ではありません。写真が多いので3回に分けて投稿します。

 トンネルのない東海道新幹線は快適でした。夕刻に京都駅に着きましたが、町はすっかり日が暮れていました。蝋燭のようなこのタワーを見ると、京都に来たのだなと思います。以前からライトアップはされていましたが、カラーで見るのは初めてです。

 ホテルに荷物を置いて夜の街をぶらつこうと、新京極に来ました。京都の繁華街といえばここでした。歩いているとドラッグストアが目立ちますが、時代の流れでしょう。昔は観光客向けの店が多かったような覚えがあります。

 客層も変わったようです。学生時代に新京極を歩いていると、土産物店を物色する修学旅行の生徒たちが大勢歩いていました。私も中学の修学旅行は京都だったのですが、彼らを見て、おう来ているなと余裕の気持ちがありました。自分がいま京都に住んでいるという満足感があったのでしょう。実際、京都の人は観光客を見てそう思っているかもしれません。

 錦天満宮です。新京極にはこういう小さな寺社が点在しており、他の商店街には無い独特の雰囲気を醸し出しています。明治維新で一時寂れた時に、この一帯の墓地を整理して、町おこしとして新京極という歓楽街を作ったという記事を読んだことがあります。そういえばここは昔からの通りの名がなく、道も三条から四条までしかありません。

 錦天満宮を背に小路を西へ向かって進むと、京都の台所といわれる錦市場があります。でも私はまだ足を踏み入れたことがないのです。  

 翌朝は百万遍の交差点から歩くことにしました。ここは今出川通と東大路通の交差点です。学生時代、よく歩きまわり馴染んだ場所です。すぐ近くに学徒援護会という古めかしい名前のアルバイト斡旋所がありました。右手にあるのは京都大学の本部構内です。この交差点を真っ直ぐ東へ行くと銀閣寺に突き当たります。

  だらだら坂を東へ少し歩くと京都大学の前に進々堂があります。ここはパン屋ですがフランス風の喫茶店として学生達に親しまれてきました。中に入ると少し薄暗く、分厚くて重厚な大きいテーブルと長椅子が並んでいます。一人で来た時は相席です。

 コーヒーを注文すると、最初からミルクが注がれたコーヒーが出て来ました。中庭にはテラス席があり、そこを抜けると清潔なトイレがありました。客は学生のグループが多かったように思いますが、たまに先生も一緒だと課外授業のような雰囲気がありましたね。

 ここは学術書や芸術書が似合いそうなクラシックな雰囲気がありました。私は京大生ではないので一人で入り、本を読んだり書き物をするような振りをして学生気分を味わっていました。この店は90年近くの歴史を刻んでおり、いま名を成している人の著作にも時々ここが登場します。 

 今出川通りと志賀越道が交わるところに子安観音があります。豊臣秀吉が聚楽第に移設したところ、白河に返せと鳴動したのでやむなく元の場所に戻したとの言い伝えがあります。大きな石仏で、私はいつもこの前を歩いていたのですが当時は由緒も知らず、すっかり記憶から消え失せていました。

 下の写真は子安観音から続く志賀越道(山中越)です。私が住んでいた北白川下池田町の町並みです。この道をずうっと登り比叡山麓の峠を越えて行くと琵琶湖の畔、志賀・大津に出ます。中世から開かれた古道で、織田信長も入洛する時にはこの道を通ったといわれています。当時は志賀越道のことは知りませんでした。

 私の下宿はこの少し先の路地を入った処にありました。大きな家でしたが記憶を頼りに行ってみると跡形もなく、数軒のこじんまりとした家が建っていました。私が最初にこの町に来た時、通りには紅殻格子に犬矢来の家があって、京都に来たのだと実感したものです。

 この辺りで一度、年配の白川女とすれ違ったことがありました。紺地に赤が入った着物に姉さんかぶり、手甲脚絆の装束だったような茫洋としたイメージが残っています。その時は有名な大原女だと思っていました。ほかにも夕暮れ時の祇園で舞妓さんを見掛けたりすると、教科書や本で見た京都の文化に触れているという刺激がありました。 

 下池田町も今は新建材の家や小さなマンションばかりで、昔の面影はありません。通っていた銭湯や栄養補給のためレモンやミカンを買っていた八百屋、学生向けの小さな食堂、小父さんがやっていた屋台のような小商いの店など、みな無くなっていました。

 

   それでも僅かに京都の郊外を思わせる家が残っています。

 

 銀閣寺へ行くため道を引き返します。写真は志賀越道の近くを流れている白川です。この上流では京都の寺社で使われる白川砂が採取されていました。白川は治水上、両岸をコンクリートで覆われて深い断面になっています。

 この写真のすぐ傍には小山があり、鬱蒼とした白川の雰囲気を漂わしていましたが、今は宅地開発されて樹木が伐採され、明るい平板な景色になっていました。京都でもこういう所まで開発されるのかと少し驚きました。

 白川は南下して岡崎で琵琶湖疎水と一度合流してからは、水量が調節されて浅く親しみやすい流れになり、祇園白川辺りで鴨川に流れ込むまで京都情緒あふれる川に変身します。

     

 白川通今出川の交差点に来ました。ここを真っ直ぐ行けば銀閣寺に至ります。学生時代はここから市電に乗り、嵐電の駅がある北野白梅町まで東の端から西の端へと通いました。 昔はこの交差点名は銀閣寺道といっていたような記憶があります。

 交差点の角にある煙草屋さんです。まだ昔のままで健在でした。大学生になった時ここで初めて煙草を買いました。それまで吸ったことはありませんでしたが、大人になった気分を味わいたかったのです。或る時煙草を1個買おうとして1箱下さいと言ったら、1カートンの箱を出されてどぎまぎしたことがあります。

 以来、数年前までいつもポケットには煙草がありました。すぐ右のスタンドで漫画雑誌を買っていました。その風景も変わらないようです。 

 銀閣寺道の交差点にある浄土寺橋の南詰です。今はここから哲学の道が始まるようです。春になると桜並木のトンネルが続き、多くの観光客でごった返します。

 昔ここには伝説のラーメン屋台がありました。京都の醤油ラーメンを初めて経験したのはこの屋台でした。とんこつラーメンしか食べた事がない私も、何の抵抗もなく美味しいと感じ足繁く通いました。後年、京都駅で醤油ラーメンを食べましたが、旨みもないただの醤油ラーメンでがっかりしたことがあります。 

 すぐ近くには大銀食堂があります。中国女優 コン・リーに似た少し年上の看板娘(?)が評判でした。ここは庶民的な店で学生やサラリーマンで賑わっていました。まだ早い時間だったので中には入りませんでしたが、今でも観光客などに利用されているようです。

 この記事は続きます。

 

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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記憶 (tango)
2016-11-12 18:55:33
思い出をたどっているのですね
私は弟が京都大を受ける時ついて行きました
知人がバスガイドさんがいて案内してくれました
次は発表の時あの大木の下で記念写真・・
街はちっとも覚えていません。嵐山だけはよく
覚えています~~
とても懐かしかったでしょうね!!
京都の町は本当に観光客が多くて学生時代を
京都で過ごして羨ましいです~~(^_-)-☆
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今晩は (九州より)
2016-11-12 21:57:12
おっしゃるように、今回は思い出の場所巡りです。
学生の頃といえば50年近く前ですが、当時の思い出を辿るプチ旅です。
もう昔を振り返る年になりました。
勿論、今の楽しみもありますよ。
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