努力次第で道は開かれると言い続けてきた手前、運・不運という言葉をあまり言いたくはないんですが、実際にはどうでしょう。
やはり、時代なり、運・不運に左右されることってあるのかなということはあるのかなと。
人との出会いについても、あの日あの時、この人と出会ったから道は開かれたという幸運もあれば、何でこの人がこんな苦労をしなきゃならないんだろうということもあるような気がします。
出会いや環境は、努力であったり結果で変化することもあるんでしょうけど、多少なりは時代であったり巡り合わせもあるのかなと感じます。
ただ、不運だと嘆いていても前に進まないし、出会いの機会を自ら見逃してしまってはならないと思い歩んで来ました。
また、人との出会いと同じように、いつ何時、自分に合った指導、技に出会えるか分からないので、出稽古や試合の際には、絶対に何かを学んで帰るという姿勢は今も昔も変わりません。
一つの技をしっかり習得してという先生が大多数の中、自分はいろんな先生や選手からいろんな技を見て学び、その中で自分に合った技を習得すればいいと指導していました。
これじゃなきゃダメという固定観念を捨て、選手自身が、あの選手がこんな技を使っていた。それで自分も使ったらよく決まった。
こないだ教えて貰った技はしっくりこない。
だからあの選手が使ってる技を教えて欲しい。
という自主性によって習得した技は、こちらで押し付ける技よりも使える技になっていくと思っていたからです。
なので、その為には人の柔道はしっかり見ていないと勉強出来ないよ。真似出来ないよとなりますが、悔しい思いをしながら、自分の意思で強くなろうとした者が強くなっていったように思います。
我が家の三兄弟それぞれに、あの時、この人に出会わなければという人との出会いや技がありました。
最終的に判断されるのは結果しかないと思いながら歩んで来て、辛抱、辛抱の不遇の時代もありましたが良い事もありました。
あえて修羅の道を選んだわけですから、辛抱なんて当然のことで、そんな簡単にたどり着ける目標ではないと思っていましたが、家族が同じ方向を向いて歩いていたので挫けることなく歩いて来れたんだと思います。
固定観念は捨てると言っておきながら、長らくいばらの道を歩いてきたもんで、こだわりの強い部分やそこは曲げることは出来ないというところも出来ました。
なので万人受けするタイプでないのも百も承知だし、同じ価値観、同じ道を歩まんとする方とちょい話が出来たらな程度に思っとります。苦笑
お互いに歩んで来た道程を分かり合えて、お互いに敬意を払い合えた瞬間は最高です。
この瞬間を知ってしまったからこそ腹を立てることもあり、この瞬間を追い求めて道着を着続けていたのかなと今は思います。