私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

葉田葦守について

2018-10-03 17:12:45 | 日記
 「葉田」<ハダ>ですが、これは「秦」に由来する地名だと言われております。
 中国の始皇帝の「秦」が滅亡してから(BC206年)その一族が日本に移民として渡ってきて、彼等の優れた先進文明がもてはやされ、日本各地に敷衍していきます。その最も代表的な土地が「摂津」と「吉備」です。
 それを証明するように、今、吉備の国には、この<シン>の日本読み「はた}の名がつく土地が至る所に見られます。総社市秦を始めとして、岡山市の「半田」「幡多」「大多羅」も、総て、当時の秦からの移民が住みついただ土地だそうです。
 また、「我が町吉備津」の西の高松にある「下土田<シモツチダ>」も、秦<ハタ>から派生された言葉であると言われております。水田と違って畑です。「乾いた土の田、」即ち、「はたけ」「はた」なのです。そこが日本書紀にある応神天皇が吉備へ行幸された所、「葉田」なのです。

葉田葦守宮の御友別

2018-10-03 09:07:49 | 日記
 吉備ノ津に上陸されてから、すぐさま兄媛のいる「葉田葦守宮」に急ぎます。その時、天皇を出迎えたのが兄媛の兄の

                “御友別<ミトモワケ>

 です。
 この人について、岡山大学名誉教授で、吉備津でお生まれになった藤井 俊先生の著書「吉備津神社」(岡山文庫)によるうと、日本武尊の東征の時の副將「吉備武彦」のお子様だ、とあります。

 まあ、その時の兄媛の年齢だすが、詳しく計算してみると、既に、相当な年齢になっていると思われますが、「日本書紀」という日本の歴史書ですから、そこに書かれていることをそのままに読んでおきたいと思います。
 
 念のために、その時間的な経緯について書いてみますと、何せ、吉備を制圧するために吉備津彦命が来たのは7代考霊天皇の時です。吉備津彦命はその弟「若建吉備津日子命」を伴って来ています。その時代から考えてみますと、応神は16代天皇ですから、その間に9代の天皇が即位されていますから500年ぐらいは経過している計算になりますから。すると、その時、兄媛はどのくらいの歳になっているか推定できるはずですよね???

 そんなことはどうでもいいことなのですが、兎に角、応神天皇は「逢いたさ見たさ」の強烈な情が、たった五日間という短い間に吉備まで行幸されております。驚くべき早さです。その間に淡路島や小豆島に立ち寄られしながらにです。
 なお、これも余残事ですが、日本書紀の解説書の中には「御友別は兄媛の父親」としているほんもありますが、それは誤りです。