葉田葦守に着いた応神天皇は、早速、兄媛にお逢いになったことは確かだと思うのですが、何も書紀には記されてなく、ただ
“以其兄弟子孫為膳夫”
と書かれてあるだけです。御友別のその兄弟や其の子たちは「膳夫」に<カシハデ>として、天皇に“饗<ミアエ>を奉ったのです。要するに、応神天皇の葦守にご滞在中、食事は、勿論の事、日々の生活総てにおいて、下へも置かない大変な、今流行りの「おもてなし」をしたのです。それを
“膳夫<カシハデ>”
と呼んだのですす、「膳」を、辞書にも<カシハ>とは出ておりません。古事記で<カシハデ>と読ましております。
では、どうして“膳夫”を<カシハデ>と読ましたのでしょうかね????
これも宣長からの借りものですが、彼は
"上代に於いては、凡て、饌<ケ>を木ノ葉に盛ける、その葉をば、何ノ木まれ、総て「加志波傳<カシハデ>」と 云うなり”
と説明しております。
なお、これも余残事ですが、あの有間皇子の歌
"家にあれば、笥<ケ>に盛る飯を 旅にしあれば 椎の葉に盛る”
の、笥<ケ>と饌<ケ>とは違っています。「笥」とは三宝のような箱物ですが、宣長の云う「鐉」は食べ物を意味しております。
これで、今回も、随分と、長たらしくなったのですが「膳夫」の説明は終わり、また、明日からはオホクニに戻ります
“以其兄弟子孫為膳夫”
と書かれてあるだけです。御友別のその兄弟や其の子たちは「膳夫」に<カシハデ>として、天皇に“饗<ミアエ>を奉ったのです。要するに、応神天皇の葦守にご滞在中、食事は、勿論の事、日々の生活総てにおいて、下へも置かない大変な、今流行りの「おもてなし」をしたのです。それを
“膳夫<カシハデ>”
と呼んだのですす、「膳」を、辞書にも<カシハ>とは出ておりません。古事記で<カシハデ>と読ましております。
では、どうして“膳夫”を<カシハデ>と読ましたのでしょうかね????
これも宣長からの借りものですが、彼は
"上代に於いては、凡て、饌<ケ>を木ノ葉に盛ける、その葉をば、何ノ木まれ、総て「加志波傳<カシハデ>」と 云うなり”
と説明しております。
なお、これも余残事ですが、あの有間皇子の歌
"家にあれば、笥<ケ>に盛る飯を 旅にしあれば 椎の葉に盛る”
の、笥<ケ>と饌<ケ>とは違っています。「笥」とは三宝のような箱物ですが、宣長の云う「鐉」は食べ物を意味しております。
これで、今回も、随分と、長たらしくなったのですが「膳夫」の説明は終わり、また、明日からはオホクニに戻ります