応神天皇の時代は、それ以後の我が国の諸制度の元になる新しい制度が確立さてています。
それが
“部”
です。「部」とは、もともとは百済にあった組織で豪族が所有していた人民の集団ですが、古事記に出ております。
”此之御世。定賜海部山辺山守部伊勢部也。”
<コノミヨニ アマ ヤマベ ヤマモリベ イセベヲ サダメタマフ>
このうち「伊勢部」はどのような集団か不明なのだそうです。
更に、この時代には新羅から渡来してきた人たちによって堤と築かせ灌漑用の大規模な池を作っています。それを監督した人が
「建内宿祢」
です。そして出来上がった池の名前が、これも不思議ですが
「百済池」
です。本来ならば新羅の人達によって造られたのですから、当然「新羅池」だと思うのですが、「百済池」と書かれております。宣長説によりますと、造られた池があった土地が「百済」という所ではなかったからだろうかと・・・
それが
“部”
です。「部」とは、もともとは百済にあった組織で豪族が所有していた人民の集団ですが、古事記に出ております。
”此之御世。定賜海部山辺山守部伊勢部也。”
<コノミヨニ アマ ヤマベ ヤマモリベ イセベヲ サダメタマフ>
このうち「伊勢部」はどのような集団か不明なのだそうです。
更に、この時代には新羅から渡来してきた人たちによって堤と築かせ灌漑用の大規模な池を作っています。それを監督した人が
「建内宿祢」
です。そして出来上がった池の名前が、これも不思議ですが
「百済池」
です。本来ならば新羅の人達によって造られたのですから、当然「新羅池」だと思うのですが、「百済池」と書かれております。宣長説によりますと、造られた池があった土地が「百済」という所ではなかったからだろうかと・・・