私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“入錦茵”も心配ですが

2016-02-12 09:42:54 | 日記

 杜甫の 「麗人行」で、楊国忠が洋々と、楊貴妃の姉「虢夫人」の錦茵に入ったことも少々気になるのですが、先日お伝えしたように、9日に鯉山小学校3年生の教室を訪ねていき、私の持っている「昔道具」を見ていただきました。そのお礼にと、3年生の子供たち全員から、誠に、可愛らしいお礼のお手紙をいただきました。
 その素晴らしさに感激して一日が過ぎて行くのが何となくさびしげにも感じております。晴れ晴れとした、このような気分にさせていただいたのは何年ぶりかなと、今でも、心を驚かしております。その素晴らしさを私一人のものにするのもと思い、全部をと思うのですが、その中、一部でも皆さまに見ていただいて、この子供たちの素晴らしい未来に思いを馳せていただけたらと思い、またまた 横道にそれますのをご勘弁ください。

      

 

 


今日は2月11日です。岡山にとっても、今日は大変意義深い日なのです

2016-02-11 09:59:10 | 日記

 建国記念の日です。神武天皇が、畝傍の橿原に宮柱太立て、そこを都と定めた日が2月11日だとされております。「日本書紀」には“辛酉年春正月庚辰朔“と書かれてありますが、何故、これが「2月11日」かということについては私には分かりませんが???
                         
 まあ、これが「建国記念の日」の言われなのだそうです。
 でも、此の神武天皇が日向の高千穂の宮から東に向かって出発されますが、先ず、最初に立ち寄られた所が筑紫の国「莬狭です。宇佐神宮のある所です。そこから、今度は、安芸の国に渡られます、そこに3カ月ほどいた後、「吉備国」に到着されます。

 神武は、この吉備の国に、、日本書紀によりますと、3年間滞在され、兵力や船などの東征のための補強を此の吉備の国で行うのでした。筑紫でも、安芸でも摂津でもないのです。吉備の国があって、始めて、神武は大和朝廷成立に至ることができたのです。吉備は大和朝廷成立のの影の力となったのです。此の神武の吉備に滞在された事に付いて「日本書紀」には、次のように書き現わされております。

 “乙卯年春三月甲寅朔巳未徒入吉備国起行宮 以居之是曰高嶋宮 三年間備舟檝蓄兵食将欲以一挙而平天下也”
                      
   吉備国の高島宮に滞在して、三年間で、戦力としての舟を補強し、更に、兵隊の数も増やし、食料も十分に備えたのです。吉備の国は西から突然来た神武に大変な協力をします。反抗したということは書いてありません。それくらいよそ者を大切にする暖かい心の持た国民だったとしか言いようがありません。普通なら。見も知らない人物がどやどやとやってきて、「やれ船だ」「食料だ」と言っても相手にされないのが普通です。でも、どうしてかわからないのですが、吉備の国は、従順に従ったのです。

 まあ、こんな吉備の絶大なる協力があって、初めて大和政権は成立するのです。難波におけるこの後の神武の戦いには相当の苦労があるのです。それと比較しても、吉備の協力は大和朝廷成立に大きな力となったのです。だから今日「2月11日」は、吉備にとっても、大変な意義ある日なのですが、そのような気配は有史以来無いと言ってもいいのです。そのような関心が皆無だからです。

 

 なお蛇足ですが、この高島宮について、「笠岡だ」「いや旭川の下流にあるのだ」なんて言う人もあるようですが、それは違います、足守川のほとりにある、あの枕草子にある「吉備の中山」にあったことには間違いありません。
  以上、今日も、又、又脱線しました。筆敬さんからのお叱りは覚悟しております。


もんもんたるいまだもん????

2016-02-10 10:40:36 | 日記

 私は、昨日、近くにある鯉山小学校3年生の教室に、「お邪魔虫よろしく」押し掛けて行きました。というのは、私は、もう20年ばかり前から、私の身の周りにあった消えそうになっている古民具を置く場所があったものですから取って置いております。丁度、今、3年生の教室では「100年ぐらい前に使っていた古い道具」について勉強しているのだという事を聞いて、私の持っている古民具が彼らの勉強の役に立てばと、持って行ったのです。

 持って行った物;五衛門風呂の蓋やさな、蚊帳、釣、畚、銊、天秤棒、大和火燵、十能、笊、五徳、火鉢、薬缶、火箸、蚊帳の取手、膳、御櫃、杓子、杓文字、電気の笠など。

 ここには、敢て、辞書で調べたのですが、漢字を使って、夫々の道具の名前を書いてみました(子供たちには、名前も漢字もですが、教えてはいません。念のために)が、これをどう読むのかお分かりですか???????もうほとんどが死語になっている言葉だと思います。でも、これらの言葉が死語になってからは、本の4、50年しか経過してないのですが。ちなみに、それらの言葉が生まれてからは、もう4~500年位か、それ以上に、悠に経っているのですが、なんと現代という時代の歩みの速い事かと八十の老人には嘆かずにはおれないように思えます。

 こんなバカげたことを書いておりますと、今の世の中、愚痴たくなるようなことが、頭の中に、次から次へと出ては消え、消えては出てくるものですね。 そんな物の一つに、何処かとはいいまでんが、まあ、なんと、その古臭い、そんなに、口角泡を飛ばさんでもよさそうにと思えるような争論が新聞紙面に出ています。

 どこかの国のバカ大臣でしょうか、そんなにも価値があるとも思えないようなバカげたことに付いて、将に、時代が逆行しそうな事について言い争わなくてもと思いたくよう事について、言ったとか言わないとかという記事が新聞やテレビに出ています。 なんと、世間の空気も読めないような

           「今の世に 利口もんだと おもうもん もんくあっても けんかせんもん」

 と、嘆かずにはいられないような世の中ですこと。


いよいよ麗人行の「結」

2016-02-09 14:29:06 | 日記

 楊貴妃の姉,虢夫人のテントには、いっぱいの食べきれないほどの美味で珍味な料理が次から次へと引きも切らさずに運ばれ、参加した人達は誰もが厭きて箸さえださないのです。

 そのような華やかな「転」の場は終わり、いよいよ「結」に場が移ります。

      “簫鼓哀吟感鬼神”  <簫鼓は哀吟として 鬼神を感ぜしめ
                 そこで演奏されている「簫」や「鼓」の音色は、あたかもそこに鬼神が佇んでいるかのように何か悲しげに奏でられています。
 
 これが「転」から「結」に転換する詩の言葉です。この中には、もはや、それまでの浮ついた華やいだ雰囲気は感じられません。鬼神です。目には見えない恐ろしい神の影が、普通なら陽気な曲であるはずですが、辺りに漂っているのように感じられたのです。此の中に、突然に、何は悪い悪雲が立ちこめているのではと感じられます。しかし、そんなことは感知せずとばかりに   

     ”賓從雜還實要津”  <賓從ヒンジュウ>は雜還して 要津に實つ>
                来客は曲江にある主だった港に満ち満ちているのです。  
     “後來鞍馬何逡巡”  <後來の鞍馬 何ぞ逡巡たる>
                そのような沢山の来客が、三々五々、「雲幕」へと集まります。それから、しばらくしてから、どうでしょう。鞍を付けた立派な馬に乗った一
人の男性がゆっくりと来るのです。
     “當軒下馬入錦茵”  <軒に當たり馬より下りて錦茵に入る>
                入り口で馬から降り 錦の敷物の上を通り、堂々と、意気揚々として幕の中へ入って行きます。虢夫人の居る所へ、何も遠慮せずにです 。
<気勢洋々傍若無人>と、私の本には説明がしてあります。言わずと知れたこと、此の馬に乗ってゆっくりと来た人は、『楊国忠』その人です。


雲幕にはまだまだご馳走が

2016-02-08 11:27:23 | 日記

 「厭」・「飫」、どちらも「飽きる」という意味です。沢山の料理が次から次へと用意され、食べるのが飽きるほどです。駱駝のこぶの肉(紫駞)など、贅を尽した料理が、大量に、雲幕の中に運び込まれるからです。だが、折角、料理人が心をこめて料理した(鑾刀縷切)のにもかかわらず、”空紛綸”、そこら辺りに乱れるように置かれて、誰も手をつけようとはしない状態です。それなのに 更に、杜甫は、これでもかこれでもかと、その場の贅を尽くした食事の賑わいを歌っております。

     “黄門飛鞚不動塵”   <黄門(こうもん) 鞚(たづな)を飛ばして塵を動かさず>
                   黄門とは、料理を運ぶ宦官です。彼等は料理した物が冷めないように馬を飛ばして、塵一つ立てずに、持って来ます。
    
     ”御廚絡繹送八珍”   <御廚(ぎょちゅう)絡繹(らくえき)として八珍(はっちん)を送る>   
           御厨とは、宮中での食べ物の調理場。大膳職。みくりやです。絡繹とは人馬などの往来が続くさま。連なり続くさま。 
           八珍とは八種の珍味です。当然、紫駞之峯や素鱗も入っていると思われますが、私の本には、その種類を

            ①淳熬②淳母③炮豚④炮羊⑤搗珍⑥漬熬⑦肝膋
 
  としてありますが、③、④を除いて、他はどんな食べ物かは分かりません。誰は教えてくださいませんか???

 

 どうでしょうは、大宝十三年頃の楊貴妃の一族、特に、楊国忠の権勢は絶大だったのです。この「麗人行」で杜甫は、その力を、上巳節を通して「雲幕」等という言葉を巧みに操りながら、上手に物語っているのです。