日本書紀の雄略天皇の七年です。この年の八月の事です。吉備の下道臣「前津屋」が、吉備の国で、わざと天皇を見下したような色々の遊びをやっていると報告を受けて、この「前津屋」一族を滅ぼしてしまいます。
これも前の時に書いたのですが、たった、大和の「物部兵士<モノノベノイクサビト>」三十人を吉備に派遣して、前津屋を始め、その一族七十人を、総て、誅殺しております。
まさかとは思うのですが、この下道臣は、吉備の中でも強大な勢力を誇る部族であったはずです。大和の物部兵士が、いかに強力な装備を携えている強い軍隊であったとしても、わずか三〇人くらいで、易々と殲滅されるような虚弱な吉備の軍事力ではなかったはずです。この「下道臣」の下道郡というのは、かって、神功皇后の朝鮮征伐の時に一萬人の兵力を、この地から集めたと、いわれるほど、当時でも、強大な力を保持していた場所なのです。三〇人ぐらいで、易々と、一族が殲滅される様な部族ではありません。何万という兵力を動員しなくては征伐どころか、反対に、大和勢力が簡単に敗北してしまうほどの強い力を持っていたはずです。
それなのに「日本書紀」には、このように書いてあります。そこら辺りの事情はよくわ分かりませんが、此の天皇の時代から吉備の力が次第に弱まって行ったということは歴史的に見ても(当時造られた、古墳の大きさを見てもですが)間違い無い史実なのです。それを文字として「三十人」という数字で書き表すことによって、その弱体化を象徴しているのではないかと思われます。
それは、また、日本の国が、次第に、日本各地に分散していた地方の豪族とによる集合的な連立政権から、漸次、天皇を中心とした強大な中央集権化していく過程を描いているのではと思われるのです。
長らくお待ちして頂いている「吉備の美女」のお話は、この事件が終わって、暫らくしてから、起りま。