私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

雄略天皇の七年のことです。

2016-03-23 18:02:38 | 日記

 日本書紀の雄略天皇の七年です。この年の八月の事です。吉備の下道臣「前津屋」が、吉備の国で、わざと天皇を見下したような色々の遊びをやっていると報告を受けて、この「前津屋」一族を滅ぼしてしまいます。
 
 これも前の時に書いたのですが、たった、大和の「物部兵士<モノノベノイクサビト>」三十人を吉備に派遣して、前津屋を始め、その一族七十人を、総て、誅殺しております。
 まさかとは思うのですが、この下道臣は、吉備の中でも強大な勢力を誇る部族であったはずです。大和の物部兵士が、いかに強力な装備を携えている強い軍隊であったとしても、わずか三〇人くらいで、易々と殲滅されるような虚弱な吉備の軍事力ではなかったはずです。この「下道臣」の下道郡というのは、かって、神功皇后の朝鮮征伐の時に一萬人の兵力を、この地から集めたと、いわれるほど、当時でも、強大な力を保持していた場所なのです。三〇人ぐらいで、易々と、一族が殲滅される様な部族ではありません。何万という兵力を動員しなくては征伐どころか、反対に、大和勢力が簡単に敗北してしまうほどの強い力を持っていたはずです。

 それなのに「日本書紀」には、このように書いてあります。そこら辺りの事情はよくわ分かりませんが、此の天皇の時代から吉備の力が次第に弱まって行ったということは歴史的に見ても(当時造られた、古墳の大きさを見てもですが)間違い無い史実なのです。それを文字として「三十人」という数字で書き表すことによって、その弱体化を象徴しているのではないかと思われます。
 それは、また、日本の国が、次第に、日本各地に分散していた地方の豪族とによる集合的な連立政権から、漸次、天皇を中心とした強大な中央集権化していく過程を描いているのではと思われるのです。

 長らくお待ちして頂いている「吉備の美女」のお話は、この事件が終わって、暫らくしてから、起りま。


春野菜でいいものは???

2016-03-21 10:04:44 | 日記

 私の、早春で、一番好きな野菜はと尋ねられると、即座に、『山にある「ミツバ」、小川のほとりにある「セリ」、柿の木の周りにある「ニラ」』と答えます。

 2月の中頃から、毎朝、順々に、それらの春野菜を、一切れづつ、摘んできては味噌汁の具としてその香りを楽しんでいます。田舎に生活している至極の私だけにしかない春野菜の楽しみ方です。春野菜はその香りが一番ですよ。この毎朝の「一菜」はお金の価値では到底言い尽くせない私の春の一つのお宝です。


「第3回吉備津栄西茶会」の準備

2016-03-21 09:19:02 | 日記

 「第3回吉備津栄西茶会」を、4月2日(土)に、栄西禅師生誕地である「私の町 吉備津」で行います。その準備のために、この数日、小忙しさにかまけて、ついつい「吉備の美女」を忘れておりました。

 昨年のその様子は、このブログでも、お伝えしたと思いますが、本年は、昨年にまして、より多くの人にご参加願えないかと、スタッフ一同はりきっております。「どうぞ、時間とお暇がございましたら参加願えないでしょうか、と言っても、単に、栄西生誕地で、香を焚いて、専門の先生に淹てていただいたお茶を飲んで頂くだけの大変簡単な栄西誕生のお祝いですが???なお、参加費はお菓子代を含めて三百円です。
 
 「きびつのもんが どげえなことをするんじゃろうかなあ~。マア いっぺんぐれええ、どげえなところで 栄西は 生れたんじゃろうかということもかねて、ちょっと見に行ってやろうかなぁ」

 と、いう気にもならんのじゃねえかと思いますが、よかったら見にきてくださいませんか。

 

 是は、いらんことですが??????、栄西は、この吉備津の地で、栄治元年(1141年)四月二十日、明星の出るころ、懐妊より八ヶ月の月足らずの子として生まれたのだそうです。この「八ヵ月」ということで、これから、栄西の家では大変な騒動が起るのです。そこら辺りのお話を私がその当日にしたいと考えております。

 写真は、栄西生誕地落慶法要における建仁寺貫主の唱導風景です。(2014.4.7)


再び、吉備国の美女

2016-03-15 10:17:26 | 日記

  ようやく中国の4大美女も終わり(2ヶ月半)もの間)、やっと「吉備の美女」に到達できました。楊貴妃のような「傾国の美女」ではなかったのです???が。ある時と言っても天皇が即位してから7年もの時は流れております。まだまだ、日本の国は、天皇による中央集権の政治ではありませんでした。吉備等、日本各地の豪族たちとの連立政権でした。どうにかして、それら地方の力を弱体化させようと四苦八苦していたのが雄略天皇です。
 
 そんな時のお話です。ある日、朝廷内で、家臣たちが無駄話に花を咲かせておりました。「一体、彼等はどんな何話をするのかな?」と思われた天皇は、物陰から、そっと、家臣たちの話を立ち聞きされておりました。
 、その時の話の中心は、当時の大和政権で、政治の中枢にいた吉備の上道臣「田狭」の妻に付いてです。彼が自分の妻の自慢話を、天皇が、まさか、物陰からこっそり聞いていようとは知らずには得意げに大声ではしておりました。
 
      “茂矣 綽矣 諸好備矣 曄矣 温矣 種種相足矣 ”

      <コマヤカデ サワヤカニシテ モロガヲソナワレリ  ウララカニ ニコヤマニシテ クサグサノカタチタレリ>
と、「日本書紀」には書かれておりますです。ここで注意したいのは、「矣」という詠嘆の助字(発音はなし)を、夫々の言葉につけて6回も繰り返して使って、その話の内容が細かく読者に分かりやすくするための工夫がなされているのには驚かされます。8世紀の書物にです。中国から漢字は入って来てそれほど時間が立っていないのにも拘らず、既に、漢字を十分に知りつくしているのです。
 
 なお、これからお話することは、昨年の10月の末ごろ、一度、ここで取り上げていますので、既に、ご存じとは思いますが、再度、書いてみます。「くどいぞ」と思われましょうが、どうぞ御読みいただければと思います。


ちょと休憩しておりました

2016-03-14 10:08:22 | 日記

 中国の四大美女とそれらに纏わる雑音を三か月もかかってお聞かせしました。
 それにしても中国という国は、今は、どうかということは分からないのですが、途方もないような大きな国だったのですね。書・絵画・工芸などの美術の分野は勿論ですが、科学に於いても文学においても超一流の文化を作り上げております。それらの文物を参考にして、過去の日本の文化も一段と高めることができたようです。まさに日本文化の御師匠さん、先生であったことには違いありません。
 その中の一人として、白居易も杜甫もいたのです。これ等の詩人が見た「楊貴妃」という八世紀中ごろの世界最大の美女をテーマにした詩をとりあげて、「傾国の美女」たる彼女の及ぼした中国社会に与えた変化を見ることで、その時代の特色を色こく歌い上げたのです。それを敢て私がこの欄で取り上げ、そのような美女が日本にもいた。そうです、此の吉備の国から生まれていたのだという事を知っていただこうと思っているのです。日本の歴史の上で、その儒教的色彩の残る国に於いて、あまり例を見ない美女の国政への悪影響を取り上げたくて、その美女をご紹介してみたいと思います。

 磐媛や日野富子や北条政子等の名は上げりますが、彼女たちが美女だったという記録は残っていません。私が知らないだけかとも思うのですが???

 そんな美女も日本の歴史上にいることは確かです。マア万葉集にあるような伝説的な美女はいたのでしょうが、傾国の美女となるような人はこれから取り上げる女性しかいなかったのではないでしょうか

 こうご期待!!!!!