私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「声啾啾」。辺地のに起る声は死者の魂の声だけです

2016-03-10 11:46:25 | 日記

    “古來白骨無人收”   <古來 白骨 人の收むる無く>  
  中国西域の戦場には、唐軍の兵士が戦いに敗れ、そのまま白骨になって転がっています。それを誰も収めるものがないといった惨状です。

    “新鬼煩冤舊鬼哭”   <新鬼は煩冤して 舊鬼は哭し>  

  近頃、此の地で戦死した者は「煩冤」、悶え苦しむ事です。どうして、このようなあわれな状態に自分が置かれなければならないのか、とです。その新しい戦死者の煩冤を聞き、今は昔、この地に無残にも転がされて、もう随分と時間が経ってしまった死者の白骨は「哭す」のみです。
 何をすることなく、ただ、此処に転がられている自分のどうしようもない空しさを現わすように声なき声を挙げて泣叫ぶことしか出来ないのです。こんな私をどうしてくれるのだと恨み節が風に舞っているだけです。そして、その辺り一帯は

   “天陰雨濕聲啾啾”   <天陰り 雨濕して 聲啾啾たるを>
 状態です。
 「このような、今の我が国の国境地帯で繰り広げられている現実を皆さんはご存知ですか。」と、作者杜甫が「君不見」と問いかけている反戦詩なのです。なお、「啾啾」とは死者の泣き声の様子を表す言葉です。 
  

 皇帝玄宗が国務を省みず、奸臣が専横をふるうようになって、国政は乱れます。その乱れに乗じて周辺の民族が唐に反乱するようになります。雲南では南詔と戦って六万の兵が死だと言い伝えられております。更に、西域でも、北辺でも唐の軍は破れます。

 こうした事態に、唐は国境を固めるべく、更に、多くの兵士を徴収して、ろくな訓練も受けないまま配置し、過酷な戦闘に立ち向かわせます。その結果は、詩にあるように、戦場はいっぱいの白骨が転がる惨状だったのです。

 「声啾啾」で、この詩は終決しておりますが、何となく、何か杜甫が言葉をつづけてくれるのではないかと思えるような、少々後ろ髪惹かれる思いが読後になっても、まだ、頭の中に残像として残るような気分になるような詩です。

                       


「兵車行」でが杜甫が訴えることは??

2016-03-09 10:29:02 | 日記

 「兵車行」の結末です。
  ”武皇開辺意未巳” 皇帝は、人々の苦しみ嘆きなどは無視するようにして辺地の防衛のために国民を駆り立てて派遣しています。その地が如何なる状況に陥っていることも知らないで。「皆さんもご存知ですか。いま東の国境で起きている状況を。」と、詩形を、インパクトのある「六言」に、敢て、変え、改めて、この詩の読者に問いかけております。「転」の書き出しの”君不聞”に対して、「結」の部分での”君不見”に連動させております。それだけ杜甫のこの詩を構成する上での技巧を十分に窺がい知ることができるのです。それがー

    ”君不見青海頭”   <君見ずや青海 の ほとり>
 です。 
 ここにある「青海」とは、当時の「吐蕃」の地のことです。チベット族(騎馬民族)で、馬を戦術にした戦いを進めており、歩兵を主たる戦術にしていた唐の軍事力(兵力)より強靭な戦力を持つ戦略を繰り広げており、しばしば、唐軍の惨敗に終わることが多かったののと言い伝えられております。そのための融和策として、先にあげた「王昭君」の故事もあったのです。その時の辺地での戦いに結果の状況を詩人は哀しくも憐れみをもって次のように歌い上げます。

    古来白骨無人收  <古来、白骨 人の収むる無きを> 
    新鬼煩冤旧鬼哭  <新鬼は 煩冤<ハンエン>し 旧鬼は 哭す>
    天陰雨湿声啾啾  <天くもり 雨しめり 声 は啾啾<シュウシュウ>


いよいよ「兵車行」の結に入ります。

2016-03-08 09:30:42 | 日記

  
  生男埋沒隨百草    <男を生まば 埋沒して百草に隨はん>
 あれほど嬉しがって、家中皆でお祝いした男の子であったが、どうでしょうか。成人になった途端に徴兵させられ、憐れにも、辺境の地で戦死して、その地の叢の中に投げ捨てられているではありませんか。
 
 「五言」から「七言」と変化した詩形は、再び、ここで「六言」の一行が挟まれます。見た目には、何かこの詩の窮屈さみたいなものが感じられるように思われますが、この詩の「起」が車轔轔馬蕭蕭」の六言で始まっていますので、「結」も、その「六言」という詩形を採り入れ、形式化することによって詩としての形を整えたのかもしれません?
 どれとも、日本語読みとは違って、漢音として発音的に
  
  ”君不見青海頭”     <君見ずや 青海の頭(ほとり)>
      あなたは見たことがないだろうか、

 “生男埋沒隨百草”までは、行人、即ち、遠征の戦士たちの“道旁過者”杜甫の問いかけに対する返事でしたが、此処からは杜甫の読者に対する問いかけの歌になります。それを意図的に意識づけるための「六言」という詩形の変化ではないかと思いますが???


本当に「信知生男惡」か  

2016-03-07 18:27:27 | 日記

   玄宗の役人たちは、若者を辺地に遠征させることを止めようとはしないどころか、その上、激しく声をかまびすしくして、租税も取り立てます。でも、その税を納めようにも、残こされた家族には、そんなものは何処にもありません。そのような状況の中で、古代から培われてきた中国社会の社会通念は、微塵にもぶち壊されて、全く新たな、次のような、全く新たな社会通念が生まれてくるのです。それを詩人は歌っております
  
  信知生男惡       <信(まこと)に知る 男を生むは惡しく>
  反是生女好       <反って是れ女を生むは好(よ)きを>
   それまでの社会通念として、女性が男の子を生む事は「善」で、女の子を生むのは「賤」であるとされていたのですが、今の世では、反対で女の子を生んだ方か「善」で、男の子を生むのは「悪」だと言われるようになっていたのです。その理由として、行人の話だとして、杜甫は歌っています。それを、今までの詩形「五言」から、再び、変化して「七言」で。  

  生女猶得嫁比鄰    <女を生まば 猶ほ比鄰に嫁ぐを得ん>
  生男埋沒隨百草    <男を生まば 埋沒して百草に隨はん>
 と。
  
 まことに、今の世は、男を産むのは割に合わない、かえって女を産んだほうがよい。女なら近所に嫁いで行くこともできるが、男は死んで雑草の茂みに倒れるだけだ。

 どうして、此処に至って「五言」から「七言形式」に、再び、詩形を変えたのでしょうか???おそらく、杜甫は、この改行の変化で以って、その「結」を読む者をして、その最後に配置した「啾啾」をより深く訴えるための技巧をこらした演出だったのかもしれませんね。

 此処までが、「転」だ、と、私は思うのですが??

 此処まで読んで、彼のどの詩でもそうですが、その校生の巧みさに、自然と、「うまい」、と、杜甫の詩人として天分の偉大さを褒め称えたいような気分になるのは、私だけでしょうか??


♪誰も分かっちゃくれない・・・と歌いたい

2016-03-05 11:36:38 | 日記

   i行人の恨み節はまだまだ続きます。故郷へ残してきた家族への思いを込めて、その憂慮する声を「五言形式」に替えて強調するが如くに、歌っています。

     “長者雖有問”   <長者 問ふ有りと雖<イヘ>ども>
     例え、里正、村の長が、我々出征兵士に「御勤めはどうですか、何かお困りな事はありますか」と聞いたとしても、    

     “役夫敢伸恨”    <役夫 敢へて 恨を伸べんや>
    どうして、兵士は、正直に、その胸の内の苦しみやその恨み事を云うことがありましょうや。言っても何にもなりません。決して救ってはくれはしません。
   
     “且如今年冬”    <且つ 今年の冬の如きは>
    「且ツ}です。この言い難いほどの我々国民の苦しみを「その上にまだ」。恨み節はより一層高まります。これら兵士の声も、また、“哭声直上干雲霄”
  
    “未休關西卒”     <未だ關西の卒を 休めざるに>   
    前に「山東二百州」があり、それを受けての「関西」です。全土に、あまねく、兵を派遣している事を高らかに歌いあげておるのです。だから、戦いはやめよう と思ってもっても止められないことを強調しているのです。「卒」とは兵を派遣することです
     
    “縣官急索租”    <縣官 急に 租を索<モト>む> 
    ”租税從何出”    <租税 何(いづこ)より出でん>
   「且」は、まだ続きます。役人たちは、その上に、今度は、留守をする家族にも、税を厳しく取り立てて、負担を強いります。残った家族は、その税をどこからひねり出せば良いというのか???。出所って、いったい、どこにあると云うのか

 
 「五言」で六行も続けております。前部の「七言」から受けて、行人の嘆きを強調して大きく訴える効果てきめんの表現方法です。その響きは、中国語で聞くと、更に、その重厚さがより強く感じられるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 なお、昨日、此処までが、起承転結の「転」に当たる部分だと書いたのですが、よく読んでいたらどうもそれでは文章の構成から考えても間違えているのではないかということに気がつきました。そこら辺りの言い訳を含めて、また、明日にでも此の続きは書いて見たいと思います。ご批判を賜りますよう。