私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「天下分け目の戦い」第一号??

2020-10-20 10:31:16 | 日記
 雄略の時か倭が全土を統一したと「宋書」に見えると書きましたが、「日本書紀」には、特に、吉備国の衰退が3段階に分かれて書かれております。その一を今日は・・・
 雄略の七年八月のことです。当時(480年頃か??)吉備国から舎人(天皇の役人)として都に出ていた「吉備の弓削部の虚空<オオソラ>」が、たまたま、故郷の家に帰っていたのです。ところが、吉備の王「下道臣 前津屋<サキツヤ>」は、虚空を1カ月も都へ出て舎人として働くのを許さなかったのです。そこで、雄略は家来「身毛君丈夫<ミケノキミマスラオ>」を吉備に遣して連れ戻したのです。その虚空が天皇に
 「前津屋は少女を天皇の人にし大女を自分と人とて競ひて相闘わせ、乙女が勝てば刀を抜いて殺し、また、ある時は小さな鶏を天皇に見立て、その毛を抜き羽を切り、大きな雄鶏を自分として、その足に金属製の爪を付けて戦わし、もし小鶏が勝ならば直ちに刀を抜いて切り殺してしまっています。」
 と申し上げます。それを聞いた雄略は怒って、物部の兵士三十人を遣わして前津屋とその一族を七十人を誅殺してしまいます。
 まあ、ここらあたりの記述には「雄略」の兵士が如何に強かったかということを言うために、数字をごく少な目には書いていますが、実際は、もっと大勢の兵士を派遣して、吉備で激戦が展開していただろうとは考えられます?? どのような戦闘であったということは記録に残っていませんが、同じ備中での秀吉の高松城の戦いよりもっと長期にわたって戦いが繰り広げられていたのではと・・・吉備には刀という強い見方がおったのですから・・・
 まあ考えられるのは、「雄略」が派遣した物部氏は組織された軍隊でしたから相当な戦闘能力は持っていたと考えられますが、そんなに三十人ほどで、簡単には勝てる吉備の軍勢ではなっかったと思われます。場所や時期など詳しいことは分りませんが、この戦いはあの「水攻め戦法」ではなかったはのは確実です・・・

 歴史家は誰も言ってはくれないのですが、この戦いが日本歴史上の第一回目の「天下分け目の合戦」だったのではと私は思っていますが

雄略天皇と吉備

2020-10-19 09:26:17 | 日記
 「大悪天皇」と評された雄略天皇ですが、この天皇以前までは、吉備と大和との関係は互いに親密なる関係が保たれそれぞれが王国として独立して、それらの国による連合政権的に倭国が存在していたのですが、中国の宋書に表れる「倭の五王」の時代から少しづつ変化が見られます。その宋書に言う「讃<サン>」(履中天皇)・「珍<チン>(反正天皇)」の時、中国宋朝から「安東将軍・倭国王」という称号をもらっていますから「倭国の王」という地位が承認されています。しかし、「日本書紀」からは、5世紀初めの「天皇」の地位は、完全なる倭国の王ではなく、吉備国などとの連合政権の代用的な存在だったことが分かります。
 しかし、その後の宋書には、倭王「武<ブ>(雄略天皇)」の時

  "東は毛人五十五国を征し、西は衆夷六十六国を服す”

 と書かれていますから、この五世紀後半頃には、倭国が雄略によって、漢書に「分かれて100余国」と書かれていた倭国が統一されたことが分かります。

 これも余残ごとですが、あちらこちらから本を引きずり出しながら調べたりしましたので、今日は、たったこれだけの文を書くのに3時間ほどかけました。 
 

「日本王代一覧」には・・・没義道<モギドウ>天皇「雄略」です。

2020-10-17 10:26:21 | 日記
 林鵞峰(林羅山の長男)の「日本王代一覧」を持っています。
  
 この本の「雄略天皇」の巻を見ますと

 〝天皇生まれつきあらくして人を殺すことを好む。罪なくして死する者多し。人皆譏りて「大悪天皇」と申す。」

 とあり、また書紀には

 〝天皇、以心為師誤殺人衆。天下誹謗言。大悪天皇也(天皇、心を師<ノリ>とし、誤ちて人を殺したまふこと衆<オホ>し。天の下誹謗<ソシ>りて言う。「大悪天皇」也と。)なお、「心を師とし」とは、自分が思った通りに誰にも遠慮せずに自由に何事も行うこと「独裁」と同義です。

 と書かれています。いかに独裁色の強かった天皇、まさに「没義道天皇」(情け容赦のない残虐な振る舞いが平気で行える天皇)だったことがわかります。

しかし、古事記にはそのような記述は見当たりませんが???どうした所以でしょうかね
 
 

雄略天皇の「わが国最初の火あぶりの刑に・・・」です

2020-10-16 09:35:00 | 日記
 書紀には、また、このようなことも・・・・
 「天皇の2年、百済の池津媛が宮中に采女としてやってきますが、その見眼麗しい異国の女性を見た天皇の家臣である「石川楯<イシカワタテ>」が一目ぼれして、どのような経緯があったのかは詳しくは語られていないのですが、自分の妻にしてしまいます。それからしばらくしてそれを知った雄略天皇は「自分のために、わざわざ百済から献上された美しい姫を・・・」と激怒して、二人を捉え、体に木を括り付けて、桟敷に載せて、火をつけ焼き殺してしまいます。勿論、民衆の眼前で見せしめのための火あぶりの極刑であったことには違いありません。
 これが日本の歴史に記されたわが国最初の「火あぶりの刑」です。
 なお、書紀には、この極刑を執り行った者を
 "大友室屋大連に命じて、来目部<クメベ>を使い・・”
 と記していますが、この「来目部」は「久米部」であり、これは本来は久米直が伴造として管掌してきたもので、のちに久米直とともに大伴連の統率下に入って、宮廷の警衛・軍事にあたっていました。中国・四国地方に分布し、岡山県にも「久米郡」があります。
 これは雄略天皇の私的な怒りの解消を国家権力を利用して執り行うということですから、それだけ天皇中心の中央集権的な国家が生まれつつあることを意味します。ということは、あれだけ強大な力を保持していた吉備の力の相対的な衰えもこの頃から始まったのではないかと思われますが???

殺人魔か??雄略は

2020-10-15 09:23:12 | 日記
 また、書紀には書いております。
 雄略の従弟に市邊皇子(履中天皇の皇子)いう人がいますが、安康天皇がこの人に次の天皇の位を譲ろうとしたのを恨んで、どうにかして市邊皇子を亡き者にしようと計画します。
 ある時、雄略は市邊に狩りをしようと、次のように言って、誘います。
 「近江の来田綿の蚊屋野(くたわたのかやの)に沢山のイノシシやシカが今いるそうです。鹿の角は大きく立派で、その足は若木の枝のようにすらりとと伸び逃げ足も速く、またその吐く息は朝霧のように辺りに立ち込めています。どうでしょうか??十月にでもなって爽やかな朝、ご一緒に鹿狩りでもして日頃のストレスを解消しませんか??」
 折角の雄略からの誘いです。その誘いに従って馳せ参じます。
 朝霧の立ち上っている蚊屋野で雄略と共に市邊皇子と馬に乗りて出かけます。突然、弓に矢を番えて雄略は皇子に向かって呼びかけます。
 「あそこに鹿が・・・」
 と思う間もなく番えた矢を市邊皇子に向けて放ち、皇子を射殺してしまいます。更に、突然のその場の様子が理解し難く、ただただ死せる皇子を抱きかかえたまま、どうすることもできず、泣き叫んでいる家臣をもその場で殺してしまいます。 書紀は更に続けます。
 市邊皇子の弟に御馬皇子(みまのおうじ)がいますがこの人も謎の死を遂げています。誰がどうして殺害したか、言わずもがなですよね・・・・

     ”邪魔者は殺せ。” これが雄略のいつもの戦略なのです????