日本ジョン・スタインベック協会のNewsletterに投稿しました「上優二先生の想い出」をこちらにも掲載させていただきます(日本ジョン・スタインベック協会Newsletter No.59発行される(2015年12月26日)参照)。
上優二先生の想い出
山内 圭 (新見公立大学)
今年の7月13日、上優二先生の奥様よりお葉書が届き、先生が直腸がんのため6月15日63歳で永眠されたと書かれていました。2013年5月の学会での上先生も登壇したシンポジウムを拝聴し、Steinbeck Studiesに掲載するその際の発表要旨原稿などのやりとりで2014年の春まで普通にメールでのやり取りをしていました。以前、入院されたことは伺っておりましたが、まさかここまでお悪かったとは、というのが正直な感想でした。
近年は、本協会とアメリカの国際スタインベック学会との橋渡し役をしていただき、将来は、間違いなく本協会の会長をしていただき協会を引っ張ってくださる方だと思っておりましたので、早すぎるご逝去が残念でなりません。
学生時代から本協会に入会させていただきました私は、教員になられてから入会された上先生とは、年齢は違いますが、ほぼ同時期の入会会員でした。現在は、Newsletterと改称しています、1991年6月20日発行の『日本スタインベック協会 事務局だより』第11号に上先生と私が「新会員」として紹介されています(p.5)。ちなみにこの頃の上先生は秦野市在住で、私は同じく神奈川県の横浜市に在住していました。
以降、年次大会や懇親会等でお会いしたり、上先生の研究発表を聞かせていただいたり、私の研究発表を聞いていただいたりしていました。周辺的研究ばかりしている私に比べて、上先生はスタインベックの作品に真っ向から切り掛かっていくまるで武士のようでした。甲斐の国にお住まいでしたので、武田信玄にもたとえることができるでしょうか。
アメリカでの国際学会やSteinbeck Festivalでも、1997年、2002年、2012年、2013年とご一緒しました。その際は、食事や飲みに行くのも何度かご一緒させていただきました。体調を崩されてからはアルコールが飲めないことを残念がっておられました。
実は、今回、この上先生への追悼文を書かせていただこうと思っている間にとても不思議なことが起こりました。今号の「Steinbeck QuarterlyおよびSteinbeck Monograph Seriesの提供について」の記事で書きましたように、この度、就実大学で保管されていた資料を山内研究室で預かるにあたり、就実大学を訪問させていただきました。この資料は、ハヤシ・テツマロ先生のBall State Universityの研究室にあったものが送られたものなのですが、就実大学の進藤先生と長瀬先生が整理をされている資料の山の一番上に、なんと上先生が1977年に創価大学英文学会の『英語英文学研究』第2巻第1号に発表された「スタインベックと人間観―集団と個人―」の抜刷が、まるで私に見つけてほしいかのように置かれていたのです。私は、今、その抜刷論文の著者の上先生の追悼文を書いていることを告げ、進藤先生と長瀬先生にお許しいただき抜き刷りをいただきました。おそらくこの論文が上先生のスタインベック研究のデビュー作だと思います。
上先生のこの論文を読ませていただきますと、スタインベックのThe Grapes of WrathやEast of Edenをはじめとする作品、そしてEmersonの作品をかなり読み込んでおられたことがわかります。またSteinbeck and His Critics―A Record of Twenty-five Yearsに掲載されている論文もかなり読み込んでいることがわかりました。スタインベック界に期待の新人現れると読んだ人が感じることができた論文であると思います。
上先生は生前、ご自分がこれまで書かれた論文をまとめたご著書を準備中であったと聞きました。そして、ご本人の遺志を継いで、現在、その書の出版に向けて作業が進められていると聞きました。私たち、残された者としましては、ぜひその書を読ませていただき、上先生の研究成果から大いに学ばせていただきたいと思います。
上先生は、以前、山梨県側から撮影された富士山の写真を見せてくださったことがあります。静岡県出身の私から見ますと、いわゆる「裏富士」の写真となるわけですが、とてもきれいな写真でした。また、スタインベックの息子さんのThom Steinbeckさんと一緒に撮影された写真も見せてくださったこともありました。上先生のことですので、今頃は天国でそれらの写真を見せながらJohn Steinbeckに話しかけ、今度は念願のJohnと一緒の写真を撮ってもらっているのではないかと想像しております。心よりご冥福をお祈りいたします。
上優二先生の想い出
山内 圭 (新見公立大学)
今年の7月13日、上優二先生の奥様よりお葉書が届き、先生が直腸がんのため6月15日63歳で永眠されたと書かれていました。2013年5月の学会での上先生も登壇したシンポジウムを拝聴し、Steinbeck Studiesに掲載するその際の発表要旨原稿などのやりとりで2014年の春まで普通にメールでのやり取りをしていました。以前、入院されたことは伺っておりましたが、まさかここまでお悪かったとは、というのが正直な感想でした。
近年は、本協会とアメリカの国際スタインベック学会との橋渡し役をしていただき、将来は、間違いなく本協会の会長をしていただき協会を引っ張ってくださる方だと思っておりましたので、早すぎるご逝去が残念でなりません。
学生時代から本協会に入会させていただきました私は、教員になられてから入会された上先生とは、年齢は違いますが、ほぼ同時期の入会会員でした。現在は、Newsletterと改称しています、1991年6月20日発行の『日本スタインベック協会 事務局だより』第11号に上先生と私が「新会員」として紹介されています(p.5)。ちなみにこの頃の上先生は秦野市在住で、私は同じく神奈川県の横浜市に在住していました。
以降、年次大会や懇親会等でお会いしたり、上先生の研究発表を聞かせていただいたり、私の研究発表を聞いていただいたりしていました。周辺的研究ばかりしている私に比べて、上先生はスタインベックの作品に真っ向から切り掛かっていくまるで武士のようでした。甲斐の国にお住まいでしたので、武田信玄にもたとえることができるでしょうか。
アメリカでの国際学会やSteinbeck Festivalでも、1997年、2002年、2012年、2013年とご一緒しました。その際は、食事や飲みに行くのも何度かご一緒させていただきました。体調を崩されてからはアルコールが飲めないことを残念がっておられました。
実は、今回、この上先生への追悼文を書かせていただこうと思っている間にとても不思議なことが起こりました。今号の「Steinbeck QuarterlyおよびSteinbeck Monograph Seriesの提供について」の記事で書きましたように、この度、就実大学で保管されていた資料を山内研究室で預かるにあたり、就実大学を訪問させていただきました。この資料は、ハヤシ・テツマロ先生のBall State Universityの研究室にあったものが送られたものなのですが、就実大学の進藤先生と長瀬先生が整理をされている資料の山の一番上に、なんと上先生が1977年に創価大学英文学会の『英語英文学研究』第2巻第1号に発表された「スタインベックと人間観―集団と個人―」の抜刷が、まるで私に見つけてほしいかのように置かれていたのです。私は、今、その抜刷論文の著者の上先生の追悼文を書いていることを告げ、進藤先生と長瀬先生にお許しいただき抜き刷りをいただきました。おそらくこの論文が上先生のスタインベック研究のデビュー作だと思います。
上先生のこの論文を読ませていただきますと、スタインベックのThe Grapes of WrathやEast of Edenをはじめとする作品、そしてEmersonの作品をかなり読み込んでおられたことがわかります。またSteinbeck and His Critics―A Record of Twenty-five Yearsに掲載されている論文もかなり読み込んでいることがわかりました。スタインベック界に期待の新人現れると読んだ人が感じることができた論文であると思います。
上先生は生前、ご自分がこれまで書かれた論文をまとめたご著書を準備中であったと聞きました。そして、ご本人の遺志を継いで、現在、その書の出版に向けて作業が進められていると聞きました。私たち、残された者としましては、ぜひその書を読ませていただき、上先生の研究成果から大いに学ばせていただきたいと思います。
上先生は、以前、山梨県側から撮影された富士山の写真を見せてくださったことがあります。静岡県出身の私から見ますと、いわゆる「裏富士」の写真となるわけですが、とてもきれいな写真でした。また、スタインベックの息子さんのThom Steinbeckさんと一緒に撮影された写真も見せてくださったこともありました。上先生のことですので、今頃は天国でそれらの写真を見せながらJohn Steinbeckに話しかけ、今度は念願のJohnと一緒の写真を撮ってもらっているのではないかと想像しております。心よりご冥福をお祈りいたします。