日本生命ビル
旧日本生命京都支店は、明治45年(1912)4月に起工し大正3年7月に竣工しました。また棟札より、大正2年7月15日に上棟したことが判明。さらに棟札には設計監督者辰野金吾・片岡安とともに、請負者として山本鑑之進が名を連ねています。辰野金吾は「辰野式」と呼ばれる赤煉瓦スタイルでほぼ一貫しており、いっぽう片岡安は石貼りを多用してより直線的な細部を用いていましたが、この建物はそうした辰野片岡事務所の特色をよく示しています。また技術面でも、純粋な煉瓦造ではなくて中に鉄骨を入れていますが、明治末期から大正前期にかけての辰野の作品には、このような耐震性への配慮が認められ、煉瓦造の日本化の一例として位置づけられます。旧支店は昭和57年に改築された。
京都市文化観光局
矢田寺
矢田山金剛寺と称し、西山浄土宗の寺である。はじめ五条坊門付近にあったが、文和年間(1352~56)下京区矢田町に移り、天正7年(1579)現在の地に移った。本堂に安置する本尊地蔵菩薩は、火焔を光背とする高さ2メートルの立像、今は、とれてしまって手前に置いてある。台座の下は地下室となり、火災の場合エレベーターによって下へ降りる仕掛けになっている。「元享釈書」によれば、閻魔大王から「菩薩が受ける戒律を授かりたいので、高徳の僧を紹介してほしい」と依頼された小野篁は、満慶上人を閻魔庁に案内し、上人は閻魔大王に菩薩戒を授けた。喜んだ閻魔大王は、そのお礼として上人に地獄めぐりをさせた。この地蔵尊は開祖満慶上人が冥途へ行き、そこで出会った生身の地蔵尊を写して造ったといわれ、「生身地蔵」(いきみ)俗に「代受苦地蔵」(だいじゅく)や「奈落化現地蔵」(ならくけげん)と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。寺宝の紙本著色「矢田地蔵縁起」は、この霊験談をあらわしたものである。また、当寺の梵鐘は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥途へ送るために撞く鐘として人々から信仰され、1年を通じて精霊送りには、多くの参拝者で賑わう。
なお、旧鐘は応安5年(1372)の在銘。戦時中の金属回収によって供出。現在のは、昭和48年(1973)の鋳造。表面に「聖霊送鐘」と地蔵立像を陽刻されている。
かぼちゃ炊き
奉納額 明治12年8月(1879)
境内から 外を見たところ
絵馬
地獄で 地蔵さんに助けてもらっているところです
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三条烏丸御所跡
当該地は、平安京左京四条三坊九町跡に位置しています。この九町は、北側を三条大路、南側を六角小路、西側を室町小路、東側を烏丸小路により四方を画された一町(約120m四方)の中にあり後世には三条南殿三条烏丸御所ともしょうされてまいりました。中右記 や 長秋記 など平安時代後期貴族の日記によると、同九町の地は、三条桟敷殿(床を持つ建物)として利用されたり、後には、左大臣にまでのぼりせー権勢をふるった藤原実能の邸宅があったことが記されています。昭和62年度に財団法人京都市埋蔵文化研究所が株式会社千總の委託を受けて発掘調査を実施しました。この調査によって、平安時代に造られた島を伴う玉石敷の遺水(庭園などに水を導き入れるための設備)と大小の景石で構成されている庭園跡の一部及び建物の柱跡などを検出しました。これらの遺構は一町規模の寝殿造による邸宅の一角をなすものと見られ、各遺構からは瓦類や土師器、須恵器の他に釉薬を施した緑釉陶器、灰釉陶器などが多数出土しています。中には中国から輸入された青磁・白磁などの、上級貴族の所有を思わせるものも含まれています。寝殿造は日本の庭園及び建築史を研究する上で重要な位置をしめていますが、現存するものはなく、御所、平等院などにその様式をうかがえるにすぎません。この宸殿造とみられる邸宅の一端を発掘調査によって検出したことの意義は大きいといえましょう。
平成元年7月 株式会社 千總 、(財)京都市埋蔵文化財
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第2鳥居 鳥居全体を撮りたかったのですが マンションが後ろに迫っていて撮れませんでした
ちょうど 第1鳥居と第2鳥居の間がマンションになっています。
マンションを造らなければ維持が難しいとのことです
歩いていると しばしば 目につきます
自然石のほかに 石臼 漬物の重しの石 長い石・・
ここには 2個あります 一人では持ち上げられません?
坂本龍馬妻お龍の実家 楢崎家跡
柳馬場三条下ルのこの付近は、のちの坂本龍馬の妻お龍(鞆)の実家跡です。お龍は、青蓮院宮に仕える内・外科医、楢崎将作の長女です。天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生し、しばらくしてこの地に移り住んだと思われます。お龍には、父母の他に、弟妹が4人もおりましたが、家事を任されることもなく、華道、書道、茶道などのおけいこごとに専念できたようです。父在世中は、いわば良家のお嬢様として、裕福に暮らしていたといえます。
文久2年(1862)6月20日、父楢崎将作がなくなると、一家の生活は一変します。長弟太一郎はまだ幼少で、亡父に代わって家族をやしなうことができず、とうとう一家はばらばらになります。
お龍とは別行動をとった母貞と末娘の君江は、洛東大仏方広寺南門(現在三十三間堂南大門)前の河原屋五兵衛(もしくは五郎兵衛)の隠居所に居住する土佐亡命志士の賄いのため、住み込みで働きます。ここに龍馬が住んでいたのです。これが龍馬しお龍の出会うきっかけとなります。龍馬はお龍を紹介した姉乙女宛ての手紙に、さまざまな彼女の個性を記し、「まことにおもしろき女」と評価しました。龍馬が愛したお龍の人格が形成された場所、それは父の死まで一家団欒をすごしたこの地であったことにちがいありません。以上の理由から、当地を龍馬に関する重要史蹟とし石碑を建立するものです。
歴史地理研究者 中村武生
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創業明治18年の老舗「大極殿本舗」です。
二代目が長崎で修行、本格的にカステラを焼きだしたのが、明治28年。当時、カステラは貴重なお菓子として珍重されていまいたが、庶民にも手が届くお菓子にしたのは、この大極殿本舗さんなのです。それは、国産第一号の電気釜を導入し(昭和3年)、カステラを大量に焼き上げることに成功したことから。京都電灯(関西電力の前身)に、電気釜を提案、共同開発し、国産第一号の電気釜が誕生したのです。その電気釜は現在、関西電力資料館に保存されているそうですよ。HPより
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