世の中には、自己啓発や精神世界、仏教や神道など、心を扱った本がたくさん出ています。
このような本を読むと、心が晴れやかになったり、明るく穏やかになるものです。
それなのに、いざ、仕事や生活に戻り、顔見知りの人たちとやりとりをしていますと、いつもの
感覚が自分を現実に戻してしまい、夢心地はどこかへと消し飛んでいきます。
「本に書いてあったようにやってみよう。よし、自分は変われる。みんなに感謝だ。」とやって
みても、1ミリも変わることのない冷めきった現実に、ガックリと落ち込みます。
それでも、まだ「これでは足りない。時間差だ。もっと頑張ろう!」となるかもしれませんし、
「この現実がおかしい。もっと素晴らしい現実があるはずだ!」と、新しい努力を始めたり
するかもしれません。
そのうち現実に疲れてきますと、何か新しいネタ本を見つけてホッと息をついたり、あるいは
お手軽なハウツー本で束の間の夢を思い描いたりするかもしれません。
そのようなこともなく、「現実は現実、夢は夢」と割り切って、ファンタジーでも読むように
一時の夢物語に興じるだけの冷めた気持ちでいたとしても、現実に戻ると、あまりの泥臭さに
思わず溜め息をついていたりします。
なぜ、そうなってしまうのでしょうか?
私たちは、美しく華麗な世界に憧れを抱きます。
世界はまばゆい光に輝いて、まわりの人たちも光り輝くはずだと、心を躍らせます。
しかしその透き通った思いに比べると、目の前の現実はいつもの姿で、無機質に立ちはだかり
1ミリも変わりそうに見えません。
重い現実を突きつけられる瞬間です。
本に描かれている世界と目の前の現実は、あまりにも掛け離れすぎてて、その隙間を埋められる
とは、とうてい思えない。
そして、しばし途方に暮れてしまうわけです。
しかし、夢追う衝動はそんなことでは無くなりません。
「世界を輝かせたい」、「人々をクリアにしたい」、と。
そして何とか手は無いかと、様々な努力を続けます。
あるいは、今いる場所にうんざりして、自分の居るべき本当の世界を探そうとします。
諦めたらおしまい、必ずそれはできる、ギブアップなんかしない、と。
でも、ここで少し、一息いれて考えてみてください。
これまで触れてきましたように、天地宇宙というのは、お蔭さまのエネルギーに満ちています。
本当に、満ち満ちています。
比喩で言っているのではありません。
詰まり詰まっているのです。
私たちは、だからこそ、生きていられるのです。
そのエネルギーで動き、そのエネルギーでこうして考えているのです。
私たち自身が、そのエネルギーなのです。
それを己の我執で濁らせていることで、自分が、自分のものであるように錯覚しているだけ
なのです。
我執が薄まれば、自分も天地も、何も分け隔てない同じ一つになるのです。
天地宇宙は、エネルギーに溢れています。
天地は、「透明なちから」そのものです。
この世界は、エネルギーそのものなのです。
つまり、世界はそもそも、光り輝いているのです。
それが見えないのは、ただ単に、自分が濁っているからです。
「汚れてしまった世界を輝かそう」なんていうのはお門違いです。
「みんなを輝かそう」なんて、余計なお世話なわけです。
やることはただ一つ。自分の我執を払うだけのことです。
世界はそのままで初めから輝いていますし、人々もそのままで初めから輝いています。
お釈迦さまも亡くなられる最期に「この世は、美しい」と仰ってます。
天地宇宙の心とは、すべてを受け入れる心です。寛容さです。
まわりの世界もまわりの人々も、そして自分自身をも、そのまま無条件で受け入れる心こそが、
それらの輝きを映し見せてくれるのです。
輝いているから受け入れる、ではないのです。
受け入れるから、輝きが見えるようになるのです。
そしてこのような感覚は、私たち日本人の中に、昔からあるものです。
神道には、祓いというものがあります。
これは悪いものを何処かへ排除したり消滅させたりするものではなく、悪いものも含めて丸ごと
素の状態に還る・変換させる、という考え方です。
つまり、それをそのままに受け入れて、見た目は同じでも、意味が変わるということです。
災いをもたらすものをカミとして祀ってしまうのも、そういう考え方がベースにあるからです。
「最初から悪いものなどない」「だから穢れを祓えば良いものになる」という考え方は、
性善説とも呼ばれます。
あまりに聞き慣れた言葉なのでサラッと流してしまいがちですが、性善説というのはつまりは、
全てがもともと光り輝いている、ということを言っています。
そして、それを翳(かげ)らせているのは、それ自身のせいだけではなく、それを観る私たちの
側にも原因があるということです。
それを観る私たち自身の穢れを祓うことが、それ自体の穢れ・翳り(蔭り)を祓うことにも
なるのです。
私たちのまわりは、もとから、すべて光り輝いています。
だからといって、今すぐ、それをダイレクトに感じる必要はないと思います。
「お手軽に近道してラクにすぐに」というのは、一番の遠回りになります。
今はただ、そういうものなんだと素直に受け入れて、我執に囚われず集中することです。
フラフラと、夢見に出歩いている場合ではありません。
世界の輝きを観たいというのなら、なおさらです。
天地宇宙のお蔭さまに感謝して、自分のことに100%集中する。
それは、自ずと今に生きることに繋がります。
この「今に集中」というのは、一歩一歩の足元だけに集中してストイックにやるということ
では決してありません。
景色を見ながら歩いていく、ピクニックのような軽やかな感覚のものです。
景色を感じているその一歩が、まわりと1つになっている状態です。
瞬間の「今」、一枚の「今」を感じ切る、浸かりきる、味わいきる、という感じです。
風呂の湯に溶けていくように心を開いて、余計なことを考えない。
山々を眺める草むらに腰掛け、春の優しい風が吹き抜けた瞬間、全身の毛穴でその景色と
空気を感じるでしょう。
その世界と、その瞬間と、すべてと自分が同化している感覚。
アレです。
そういえば、子どもの頃のキラキラもそんな感じでしたね。
世界が輝いていることを、私たちはみんな知っているのです。
まわりを全て感じる。
その瞬間のなかに、自分も一枚絵になっている。
それが一歩一歩の意味であり、集中の意味です。
自分を包む「今」以外のことに、心を移ろわせないということです。
まわりを見ずに、一心不乱に歩いているのではありません。
進む先に広がる山も見えています。ただ、それに執着はしない。
一歩ごとに、近くも遠くも、「今」を全身に感じているだけです。
それは、私たちのご先祖さまたちが、自然にアタリマエにやってきたことです。
汗をかきながら黙々と稲を植え、一服しながら笑顔をこぼし、そしていつまでも続くそんな毎日を
何も疑うことなく、一喜一憂しながら素直に生きていました。
さぁ、私たちも。
天地宇宙やご先祖さまたちに感謝し、沢山のお陰さまに包まれながら、今の景色を全身で
感じてみませんか?
もはや世界がどうのでなく、それこそが、キラキラと光り輝く姿になっているのではないでしょうか。
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このような本を読むと、心が晴れやかになったり、明るく穏やかになるものです。
それなのに、いざ、仕事や生活に戻り、顔見知りの人たちとやりとりをしていますと、いつもの
感覚が自分を現実に戻してしまい、夢心地はどこかへと消し飛んでいきます。
「本に書いてあったようにやってみよう。よし、自分は変われる。みんなに感謝だ。」とやって
みても、1ミリも変わることのない冷めきった現実に、ガックリと落ち込みます。
それでも、まだ「これでは足りない。時間差だ。もっと頑張ろう!」となるかもしれませんし、
「この現実がおかしい。もっと素晴らしい現実があるはずだ!」と、新しい努力を始めたり
するかもしれません。
そのうち現実に疲れてきますと、何か新しいネタ本を見つけてホッと息をついたり、あるいは
お手軽なハウツー本で束の間の夢を思い描いたりするかもしれません。
そのようなこともなく、「現実は現実、夢は夢」と割り切って、ファンタジーでも読むように
一時の夢物語に興じるだけの冷めた気持ちでいたとしても、現実に戻ると、あまりの泥臭さに
思わず溜め息をついていたりします。
なぜ、そうなってしまうのでしょうか?
私たちは、美しく華麗な世界に憧れを抱きます。
世界はまばゆい光に輝いて、まわりの人たちも光り輝くはずだと、心を躍らせます。
しかしその透き通った思いに比べると、目の前の現実はいつもの姿で、無機質に立ちはだかり
1ミリも変わりそうに見えません。
重い現実を突きつけられる瞬間です。
本に描かれている世界と目の前の現実は、あまりにも掛け離れすぎてて、その隙間を埋められる
とは、とうてい思えない。
そして、しばし途方に暮れてしまうわけです。
しかし、夢追う衝動はそんなことでは無くなりません。
「世界を輝かせたい」、「人々をクリアにしたい」、と。
そして何とか手は無いかと、様々な努力を続けます。
あるいは、今いる場所にうんざりして、自分の居るべき本当の世界を探そうとします。
諦めたらおしまい、必ずそれはできる、ギブアップなんかしない、と。
でも、ここで少し、一息いれて考えてみてください。
これまで触れてきましたように、天地宇宙というのは、お蔭さまのエネルギーに満ちています。
本当に、満ち満ちています。
比喩で言っているのではありません。
詰まり詰まっているのです。
私たちは、だからこそ、生きていられるのです。
そのエネルギーで動き、そのエネルギーでこうして考えているのです。
私たち自身が、そのエネルギーなのです。
それを己の我執で濁らせていることで、自分が、自分のものであるように錯覚しているだけ
なのです。
我執が薄まれば、自分も天地も、何も分け隔てない同じ一つになるのです。
天地宇宙は、エネルギーに溢れています。
天地は、「透明なちから」そのものです。
この世界は、エネルギーそのものなのです。
つまり、世界はそもそも、光り輝いているのです。
それが見えないのは、ただ単に、自分が濁っているからです。
「汚れてしまった世界を輝かそう」なんていうのはお門違いです。
「みんなを輝かそう」なんて、余計なお世話なわけです。
やることはただ一つ。自分の我執を払うだけのことです。
世界はそのままで初めから輝いていますし、人々もそのままで初めから輝いています。
お釈迦さまも亡くなられる最期に「この世は、美しい」と仰ってます。
天地宇宙の心とは、すべてを受け入れる心です。寛容さです。
まわりの世界もまわりの人々も、そして自分自身をも、そのまま無条件で受け入れる心こそが、
それらの輝きを映し見せてくれるのです。
輝いているから受け入れる、ではないのです。
受け入れるから、輝きが見えるようになるのです。
そしてこのような感覚は、私たち日本人の中に、昔からあるものです。
神道には、祓いというものがあります。
これは悪いものを何処かへ排除したり消滅させたりするものではなく、悪いものも含めて丸ごと
素の状態に還る・変換させる、という考え方です。
つまり、それをそのままに受け入れて、見た目は同じでも、意味が変わるということです。
災いをもたらすものをカミとして祀ってしまうのも、そういう考え方がベースにあるからです。
「最初から悪いものなどない」「だから穢れを祓えば良いものになる」という考え方は、
性善説とも呼ばれます。
あまりに聞き慣れた言葉なのでサラッと流してしまいがちですが、性善説というのはつまりは、
全てがもともと光り輝いている、ということを言っています。
そして、それを翳(かげ)らせているのは、それ自身のせいだけではなく、それを観る私たちの
側にも原因があるということです。
それを観る私たち自身の穢れを祓うことが、それ自体の穢れ・翳り(蔭り)を祓うことにも
なるのです。
私たちのまわりは、もとから、すべて光り輝いています。
だからといって、今すぐ、それをダイレクトに感じる必要はないと思います。
「お手軽に近道してラクにすぐに」というのは、一番の遠回りになります。
今はただ、そういうものなんだと素直に受け入れて、我執に囚われず集中することです。
フラフラと、夢見に出歩いている場合ではありません。
世界の輝きを観たいというのなら、なおさらです。
天地宇宙のお蔭さまに感謝して、自分のことに100%集中する。
それは、自ずと今に生きることに繋がります。
この「今に集中」というのは、一歩一歩の足元だけに集中してストイックにやるということ
では決してありません。
景色を見ながら歩いていく、ピクニックのような軽やかな感覚のものです。
景色を感じているその一歩が、まわりと1つになっている状態です。
瞬間の「今」、一枚の「今」を感じ切る、浸かりきる、味わいきる、という感じです。
風呂の湯に溶けていくように心を開いて、余計なことを考えない。
山々を眺める草むらに腰掛け、春の優しい風が吹き抜けた瞬間、全身の毛穴でその景色と
空気を感じるでしょう。
その世界と、その瞬間と、すべてと自分が同化している感覚。
アレです。
そういえば、子どもの頃のキラキラもそんな感じでしたね。
世界が輝いていることを、私たちはみんな知っているのです。
まわりを全て感じる。
その瞬間のなかに、自分も一枚絵になっている。
それが一歩一歩の意味であり、集中の意味です。
自分を包む「今」以外のことに、心を移ろわせないということです。
まわりを見ずに、一心不乱に歩いているのではありません。
進む先に広がる山も見えています。ただ、それに執着はしない。
一歩ごとに、近くも遠くも、「今」を全身に感じているだけです。
それは、私たちのご先祖さまたちが、自然にアタリマエにやってきたことです。
汗をかきながら黙々と稲を植え、一服しながら笑顔をこぼし、そしていつまでも続くそんな毎日を
何も疑うことなく、一喜一憂しながら素直に生きていました。
さぁ、私たちも。
天地宇宙やご先祖さまたちに感謝し、沢山のお陰さまに包まれながら、今の景色を全身で
感じてみませんか?
もはや世界がどうのでなく、それこそが、キラキラと光り輝く姿になっているのではないでしょうか。
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