これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

今の私を受け入れましょう

2015-02-08 18:28:39 | 心をラクに
ようやく風邪はおさまりましたが、体力がすっかり落ちてしまいました。

風邪をひいてる最中には、心が弱気になってもソレでヨシと諦めきっていたのでしたが、
調子が戻って頭がスッキリしてくると、今度は体力が落ちていることにガックリしている
のですから、我ながら忙しいもんであります(笑)

体調を崩せば体力が落ちて当たり前なわけですが、それだけ「普通の状態」というものが、
強烈に、自分の肌に刷り込まれているということなのかもしれません。

今までは、動けてアタリマエ。
それが、少し動いただけで息が切れたり、足が踏ん張れなくなったり。
気にもとめず流していたアタリマエが、目の前から無くなった瞬間、エッ!?となるわけです。
そして、自信をなくしてガックリ、と。

以前も書きましたが、自信というのは「今の自分を信じられている状態」つまり「今の自分を
受け入れている状態」「まかせきっている状態」です。
ですから「普通の状態」「アタリマエの状態」を失ったことに戸惑ってしまうと、現実を受け入れ
られていない状態となり、自信をなくしてしまうということです。

実際に身体を動かしている場面、運動をしている真っ最中であれば、なおさらこの落差は
受け入れがたく、それだけ強い我執も起こりやすくなります。
とりわけ、二人一組で稽古をしている時などは、相手に迷惑かけたくないという思いで、
無理やりにでも身体を動かそうとしてしまいます。
あれ?おかしい?と思った瞬間、何とか「普段の」動きに近づけようと、頭(意識)でもって
ギアを上げてしまいます。
身体の自然な動きを無視して、心で鞭を打っているというのは、完全に、我(が)に染まって
いる状態です。
動かない身体を動かそうとするのは、「動かねば」という我欲200%なわけです。
そして、その不自然な心の状態が、相手を投げられないという形となって現われてくるのです。

まさに「透明なちから」とは、180°反対の状態といえます。

その場を取り繕えさえすれば、たとえ付け焼刃だったとしても、根性や気合いだと言って美談で
片づけられるかもしれません。
しかし、実際に身体を使っている場面では、結果がともなわないため、美談として誤魔化すことが
できないわけです。


以上は、目に見える体の話でしたので分かりやすかったと思いますが、これが日常的なシーンや
心の話だったらどうでしょうか。

身体や心が鉛のように重く、まるで水の中でもがいているようにモドかしい。
それでも何とかしようと、根性や気合いで頑張ってしまう。

これと同じことを、日ごろ、自分が弱っている場面でもしていないか、ということです。

言葉は悪いですが、そうなると結果的に、我執を刻んでしまっていることもあるわけです。
もちろん、止むにやまれず、無理しないといけない場面というのはあります。
特に仕事などでは、自分が弱っているからできませんでは済まないものです。
たとえ、我執だろう何だろうと、自分にムチ打たないといけないことがあります。
ですから、それはそれでいいのです。
ただ、同じやるにしても、その中身を理解しておくということが大切になってきます。
知らずにやるのと、知っててやるのとでは、大きく違います。

何も考えずにいますと、我が身にムチ打つ「根性」や「気合い」というものは美談に思えて
しまうものです。
特に、運動をやってきた人間などは、環境的にもその傾向が強いかもしれません。
でもそれは、どうしても必要な時にやむを得ず使うものであるということを、冷静に理解して
おくことが大事です。

伝家の宝刀だと分かっていれば、それに囚われてしまうことはありません。
使ったところで、そこからサラリと離れられます。
しかし、それが習慣化してしまうと、無意識のうちにいつも使うようになってしまい、我執を
重ねることになってしまいます。

ですから、必要な場面以外では、なるべくそういうものは使わないほうがいいのです。

ただ、私たちは、その必要な場面というものも勘違いしやすいものです。
とりわけ、弱っている時やスランプの時など、私たちは無理をしようとしてしまいます。

それは、成果や結果、あるいは周囲の目を気にしているということもあるかもしれませんが、
それ以上に大きいのが「普段の自分こそが本当の自分だ」と思い込んでいる囚われにあると
思います。

確かに、365日のうちの大半は、似たような状態にあるかもしれません。
だからといって、そうでない状態の自分が、異質な自分ということにはなりません。

いつもと違った自分、いつもよりも劣った自分、受け入れたくない自分・・・
そのような認識を抱くことで「いつもと同じ状態に戻そう」とする我欲が現われてきます。
そして、それがうまくいかないと自信を失い、弱気になったり落ち込んだりするわけです。

でも、1日1日すべての自分が同じであるはずがないことくらい、冷静に考えれば分かるものです。
単に、普段の状態であれば、それが誤差の範囲におさまってしまうため、その差を実感できない
だけのことです。

一年前の自分と、今の自分は違うもの。
きのうの自分と、今の自分は違うもの。
さっきの自分と、今の自分は違うもの。

その日その瞬間の自分は、すべて違います。
だから、それぞれを比較する必要はありません。
すべてが違ってアタリマエだからです。


うまく出来ない自分があってもいいのです。
いつもと同じ結果を目指す必要はありません。

まわりから言われるまでもなく、自分のことは自分が一番よく分かっています。
まわりがガッカリしたって、それはそれ。
みっともないなんて思わない。
ガッカリさせとけばいいんです。
それで、自分までガッカリする必要はありません。
しゃーないんですから。
HP(ヒットポイント)が少ないんだから、無茶いうなってことです。

釈明なんてしなくてもいいのです。
涼しい顔で、ニコニコしていましょう。
自分だけは、今の自分をそのまま受け入れてあげましょうよ。

「いつも」の自分なんてものは、ありません。
今は、「今」の自分だけを見ていればいいのです。
調子が悪ければ、それが「今」の私なのです。
飾ることない、素の「今」の私なのです。

負荷をかけて120%にしようとする必要はありません。
それは「今」の私を拒絶、否定することにしかなりません。

「あれ?おかしい?ダメだな?」なんてのは余計なことです。
それは「今」ではない何処かを見てます。
どこかと比較してるだけです。

今は今のままで、そのまま全てを受け入れる。

「カッカッカツ、調子悪りぃ~!」と(笑)

それが「今」に100%の生き方です。
それが自分を信じることです。

今の自分にフォーカスしていれば、すべてが自然のリズム、自然のペースになります。
身体にあった心のペースになりますし、心のペースにあった身体の動きになります。

天地とおなじ、自然の呼吸、自然の生き方になります。

たとえ肉体が弱っていても、心はとてもラクになります。
そして、それにあわせて、肉体もラクになっていくものなのです。


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