瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第57話―

2008年08月16日 21時51分02秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
酷い雨だったろう?
今タオルを持って来るから、席に座って待って居てくれたまえ。
どうも台風が近付いてるようだね…そっちはどんな具合だい?
海川山の側に住まう人は、注意しておいた方が良い。

そら、タオルと――今夜の飲物だ。

ラムネだよ。
懐かしいだろう?
幼い頃は瓶の中のビー玉をどうにかして取ろうと、躍起になったもんだ。
巧い事取った奴は、それこそ皆から「達人」なんて呼ばれてね…ちょっとしたヒーローだったよ。
単なる硝子玉だが、子供の目には宝石みたく、輝いて思えたんだろうな。

…古き良き時代を回想するのはこれくらいにしといて、今夜お話しするのも岡本綺堂の随筆集からだ。
何でも中国清の時代に、沈起鳳(しんきほう)が著したオカルト短編小説集『諧鐸(かいたく)』の内の、『奇女雪怨』 と言う話らしい。




中国河南省夏邑(かゆう)県に、線娘(せんじょう)と言う士族の娘が在った。
詞や賦をすらすらと暗誦するほど優秀で、教師や学者達からも天晴れな女学士であると嘆賞され、若くして認められていた。
不幸にも齢17の時に父母が相前後して世を去り、以来庭に1本の玉蘭が植わる広い家に唯独りで住んでいた。

或る朝娘が早く起きて、隣家とを隔てる垣に寄掛った玉蘭の花を摘んでいる時、それを望み見て居た隣家の学生が、垣の側まで走って来て、お辞儀して挨拶をした。
その学生は未だ独身で、容貌の整った好青年であった。
優秀な女学士と言えど恋を知る年頃、好青年に会釈されて線娘は頬を染め恥らった。
早々に返礼して、逃げる様に立ち去ろうとすると、青年は静かに娘を呼び止めた。

「お待ち下さい、私は決して邪な気持ちから貴女に近付いた訳ではありません。
 実は私は受験(官吏登用試験)を前に控えた学生なのですが、何分にも独学で、師を頼むべき人が居らず困っていた次第です。
 宜しければ、拙い文章の御添削を願いたいのですが…如何でしょう?」

こう言うと、彼は一巻の草稿を取り出して、丁寧にその添削を求めた。
そこで断っておいたらば何事も無く済んだのであろうが、線娘も些か自分の才を誇る気味が有ったのだろう。
結局それを受取って自分の書斎に戻り、初めから仔細に読んでみると、彼の文章は才華に溢れているものの、二、三程拙い箇所が無いでもなかった。
その中でも試験の妨げになりそうな部分を一、二添削して、明くる日再び花を手折りに庭へ出た際、それを窺い青年が直ぐに出て来たので、娘は垣越しに草稿を返してやると、彼は深く感謝して受取った。

こういう事が度重なり、何時しか青年は大胆にも垣を乗越え、娘の庭にまで入り込んで来るようになった。
仕舞には彼女の書斎にまで進入するようになった。

若い女独りが住まう所へ若い男が親しく出入りするのであるから、彼等は当然行き着くべき所へ行き着くより外は無かった。
2人は生涯の愛を山河や日月に誓い、半年ばかり逢瀬を続けていた。

その間に線娘はしばしば結婚を催促したが、青年は口では承諾していながら、だらだらと日を送るばかり。
終には他家の娘と婚約を結んでいた事を知らされ、線娘は愕然とし悲しんだ。
それでも女学士であるプライドから、すっぱりと決別の言葉を告げ、清く別れてしまおうと、垣の側に立って毎日待ち暮らしていたが、青年は新しい愛の巣を営む事に忙しく、隣に住まう妾の事なぞ省みてる暇は無かった。

待てど暮らせど姿を現さない男に、線娘は憤るやら悲しむやら…終に堅く閉ざした己の書斎の内で、首を縊って死んでしまった。
後日それを知らされた青年は酷く驚き、流石に己の薄情を悔やんだが、今更どうする事も出来なかった。


それから暫く経ち――彼が郷試(今で言う公務員試験の初段階)を受けに出た時の事だ。

試験問題を前に気持ちを整えていると、何処からともなく彼の線娘が現れたので、青年は大いに恐れ慄いた。
しかし線娘はちっとも怒りの色を見せずに、彼の為に紙を開き、墨を磨って、正しい答を書き教えてくれた。
お蔭で青年は首尾良くその試験に合格した。

続いて礼部(郷試の一段階上)を受けた際にも、線娘は再び青年の前に現れ、前と同じ様に紙を開き、墨を磨って、彼の文章の間違ってる箇所を添削してくれたので、これにも滞り無く合格した。
更に殿試(公務員試験の最終段階、今で言えば一種)を受け、最難関と言われる資格をも取得し、青年は見事都に勤める官吏になる事が出来た。

自分を怨んでいる筈の線娘が何時も影身に沿うて助けてくれるので、青年は頻りにその恩を感謝していると、或る時線娘が久し振りに姿を現して、彼にこんな事を囁いた。

「このまま都で役所勤めを続けて居ても、決められた給与が入って来るだけ。
 より懐を充たしたく思うなら、早く運動して地方へ出る事をお考えなさい。」

それを聞いた青年は成る程と頷いた。
それから地方官になる為の運動を始めて、2年為らざる内に或る地方の郡守に抜擢される事になった。

都の小官吏が地方へ下り、その1地方の権を握ると、俄かに欲心が増長して、今で言う所の「汚職」を繰り返す様になってしまった。
貧しい民から容赦無く搾取して私腹を肥やしたり、盗賊から賄賂を受取り法を緩めたりしてる内に、とうとう悪事が発覚して「棄市の刑」に処される事となった。
「棄市の刑」とは死刑にされた後、その死骸を市に棄てられるという、大変重い刑罰である。

申し渡しを受けて、いよいよ明日は刑場へ牽き出されるという夜――線娘が黒髪を振り乱して彼の前に現れた。

「今こそ積年の恨みを晴らせる時が来た…!
 あの時直ぐに亡ぼしてやる積りであったが、一介の書生を窓の下で殺してみても詰らないと思い直し、蔭ながらお前の加勢をして、昇る所まで昇らせておいて、世間の人の見る前で重罪人として惨たらしい最期を遂げさせ、末代までも悪名が残るよう策を練ったのだ!
 思い知ったか!――ははははは…!」

女学士の怨霊はけらけらと嘲って消え失せた。




世に「女の執念ほど恐ろしいものは無い」と言われるが、直ぐには殺さず、1度高みに昇り詰めさせた所で一気に突き落とすとは、正しく恐ろしい事この上ない。
男性陣は恨みを買わぬよう、くれぐれも女心を踏み躙る真似は仕出かさない事だ。


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

瓶は回収するからゴミ箱に棄てずに置いといてくれたまえ。
何でもラムネ瓶はほぼ100%リサイクル可能だそうだから。


そう言えば今日は送り盆だったな…。
ちゃんと送り火を焚いたりして、送ってあげたかい?
でないと背中に貼り付いたそれは離れてくれないよ。
いやこれは悪い冗談だがね…気にしなくて結構、気を付けて帰られるといい。

繰り返し言っておくが……

夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
そして、風呂に入ってる時には、足下を見ないように…。

では御機嫌よう。
次の夜も、楽しみに待っているよ…。




参考、『江戸の思い出―岡本綺堂随筆― (河出文庫、刊 「女学士の報怨」の章より)』。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする