前回「桜橋~神田川を下る旅~その20」に引き続き、今回は上流から数えて136番目の昌平橋~139番目の和泉橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は主に一年前の2020年3月末頃です(一部、今年撮影した写真も含みます;)。
で、前回「今回で終わり」とか言いましたが…済みません、後もう1回続けさせて頂きます。(汗)
↑源流から数えて136番目の橋…「昌平橋」
「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1624~1644年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。
橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)が在り、一口(いもあらい)橋とも呼ばれました。
他にも、相生橋と言う呼称も有りました。
その後、1691(元禄4)年に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷に因んで『昌平(しょうへい)橋』と呼ばれるようになりました。
少し下流に在った筋違(すじかい)門と共に、中山道・日光御成道(おなりみち)の主要道路として利用されており、橋の南側は『八つ小路(やつこうじ)』と呼ばれる広場として賑わいました。」
「御成道とは、徳川将軍が参詣等で通る道筋の事を言います。
江戸時代、この場所には江戸城外郭門の一つ『筋違門』が在り、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。
『筋違門』の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していた為です。
門内には火除けの広小路が在り、八つの口に通じていた為、俗に『八つ小路』と呼ばれていました。」
↑昌平橋側に立ってた案内看板より。
…現在の橋名は、前回紹介した聖橋の袂に建つ湯島聖堂内の孔子廟が由来になってるのですね。
重厚で精巧なデザインの親柱は、古くから主要道に架かる橋として利用されて来た歴史を暗示しています。
外堀通りと旧中山道が交わるこの場所は現在も交通の要、車両だけでなく複数の鉄道がこの橋の周囲を行き交います。
↑昌平橋上より上流側を向いた風景…中央線と総武線が——聖橋の方へ目を向けると地下鉄丸ノ内線が走る風景…コアな鉄道ファンになると、3本同時に写真に収める為、時刻表を元にシャッターチャンスを狙うのだそう。
鉄道ファンじゃない自分は、あっさり諦め、別々に収めました。
↑昌平橋上より下流側を向いた風景…右側の建物は旧万世橋駅の遺構。
↑下流側左岸に在る駐車場付近は、ユリカモメの休憩所になってました。(渡り鳥なんで、季節によっては観られない風景です)
…海に近付いてるのを実感する光景です。
↑昌平橋から次の万世橋まで、高架橋下に飲食店が続いており、食欲が刺激されます。
古い煉瓦造りがお洒落ですが、この造りは単なるデザインではなく、嘗ての旧駅の歴史に関わっています。
その話は下記にて——
↑源流から数えて137番目の橋…「万世橋」
これまた時代がかった重厚な親柱、背景にはそんな古式ゆかしい親柱のデザインにそぐわぬ近代的な秋葉原のメインストリート——最新のオタク文化を世界に発信するこの場所で、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った「萬世橋駅」の遺構が発見されました。
↑万世橋上より上流側を向いた風景…左側の煉瓦造りの古い建物が、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った、「萬世橋駅」の遺構です。
明治45(1912)年に開業し昭和18(1943)年に休業となった旧駅のホームや階段が、現万世橋付近の高架橋の中に一部発見されたのを機に、旧万世橋駅の遺構を「交通博物館」として再生したのです。
☆万世橋側の立ち寄りスポット…「旧万世橋駅(&マーチエキュート神田万世橋)」
施設の見所は、旧万世橋駅の開業時のホームを蘇らせた「2013プラットホーム」。
硝子で仕切られた展望カフェデッキに座り、中央線が両脇を行き交う様子を眺めれば、萬世橋駅が現代に蘇ったかの様に錯覚するでしょう。
現駅と旧駅の歴史が交差する浪漫溢れるスポット、SFと鉄道が好きな松本零士先生なら、作品を思い付いてくれるかもしれません。
…あいにく自分が訪れた日は、新型コロナ流行の影響で、交通博物館内を見学する事は叶わず、ライブラリー内の萬世橋駅周辺を再現したジオラマ模型のみ見学して来ました。
高架橋下に造られたショッピングストリート、「マーチエキュート神田万世橋」も覗いて来ましたが、こちらも新型コロナ流行の影響か、レストラン・バーが閉店してたりして、以前観た時より大分寂しい風景になってました。
閉店したフロアは無料で開放されてた為、周囲の風景を撮影するには有難かったですが。
↑万世橋上より下流側を向いた風景…次に架かる橋との間にはJR線鉄橋が架かります。
鉄橋を通る鉄道は、山手線、宇都宮線(東北本線)、高崎線、京浜東北線、北陸・上越・秋田・東北新幹線とバラエティー豊か、地図で線路を数えたら10線程有りました。
「明治5(1872)年に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。
この橋は、当時東京府知事の大久保忠寛が『萬世橋(よろずばし)』と命名したが、次第に『まんせいばし』という音読みが一般化した。
更に明治29(1896)年に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
明治36(1903)年に現在の位置に新しい萬世橋が架け直され、元萬世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。(勿体無い…)
この新しい萬世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12(1923)年の関東大震災で被災し、昭和5(1930)年に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
現在、神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正年末から昭和初期に架けられた物で、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたと云う。
トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川に架かる震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見出せる。」(←万世橋側の案内看板より)
…神田川下流に架かる各橋が、それぞれ異なるデザインなのは、震災復興のシンボルとして建造されたからなのですね~。
↑源流から数えて138番目の橋…「神田ふれあい橋」
道の切れ込みからひっそりと続く歩行者専用橋です。
出入口を見落としがちなせいか、側の街灯に表示看板が吊り下がってる…それでも見落とす人が居そうな程、道の死角に隠れる様に在ります。
元は新幹線工事用の作業橋だったのを、新幹線開業前の1988年、一般に開放したのが始まりとか…これは新幹線東京駅乗り入れに反対していた神田地区の住人との交渉から、妥協策として導かれたらしい。
江戸町火消しの纏をモチーフにした親柱が洒落てる、実は左岸と右岸で親柱のデザインが違ってる事に、去年初めて気が付いたという。(汗)
↑橋の上流側は写真の通り新幹線の防音壁が築かれ風景が望めないので、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の下流側を向いた風景のみ上げます。
右岸に見える柳森神社には、「秋葉原」の地名に纏わる神様が祀られています。
☆神田ふれあい橋側の立ち寄りスポット…「柳森神社」
狭い社内に小さな境内社が肩を寄せ合う様に集合してる神社です。
明治時代の神社合祀政策に因るものかな?
↑「福寿神(徳川桂昌院殿)」——柳森神社内で最大の境内社、参拝時、緑色の桜(ウコン?)が咲いてて綺麗でした。
「江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉公の御代、将軍の御生母『桂昌院』様によって、江戸城内に『福寿稲荷』と称して創建された。
桂昌院様は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍家光公の側室となり、五代将軍綱吉公の御生母となる。
大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと挙って御狸様を崇拝したと云う。
後世、元倉前甚内橋際、向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました。
開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上等に御利益が有ると信奉されております。
尚、当社において頒与する『おたぬきさん』と呼ばれる土製の親子狸の御守りは、素朴で、大変愛されております。」(←案内看板より)
↑後方、少し離れた所に建つ「おたぬきさん」の小社。
…なかなか可愛いじゃないか「おたぬきさん」!こんな愛嬌有る御守りなら、確かに人気を呼ぶだろう。
↑他に、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮とする、海運業者や商人から信仰を集めた「金刀比羅神社」や、
↑広島県宮島厳島神社と神奈川県江の島の江島神社と所縁が在るかもしれない「水神厳島大明神・江島大明神」や、
↑江戸時代に火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰を集めた「秋葉大神」を祀る小社が建っています。
説明の必要無いでしょうが、こちらの「秋葉大神」様こそ、「秋葉原」の地名の由来になった神様です。
↑更に商人からの信仰を集めた明徳稲荷神社、
↑同じくお稲荷様が祀られてる幸神社も建っています。
↑更に更に境内の一角には、丸くて大き目な謎の石が、ゴロゴロ積まれていました。
案内看板によると、これらは「力石群」と呼ばれる、千代田区指定文化財だそうです。
「江戸時代には、若者達の間で、重量の有る石を持ち上げて力自慢を競う事が流行しました。
明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりを見せます。
柳森神社の境内に在る力石の一群は、当時の力士で大関として名を上げた『神田川徳蔵』こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝える為に集められた物です。」
↑更に更に更に、境内の出入口側には、富士講所縁の石碑群も保存されてました。
こちらも同じく千代田区指定文化財だとの事。
「5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講の名残を今日に伝える物です。
富士講とは、富士山信仰を元に成立した民間信仰の一種で、江戸時代、特に町民や農民の間で流行しました。
柳森神社は、1680(延宝8)年に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。
『東都歳事記』には、天保年間(1830~1844年)頃の『富士参(富士浅間神社への参詣)』の例として柳森神社の事が採り上げられています。
1930(昭和5)年には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960(昭和35)年に取り壊され現存していません。
石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字が在り、この頃に富士講を再興させようという動きが有った事が解ります。」
↑手水舎には浅間神社の札(?)が貼ってありました。
…総合するに、江戸時代のパワースポットを纏めてお祀りしたのが、「柳森神社」という事らしい。
そんな江戸庶民からの信仰を集めた神様達の御社に居付いてるのが、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真のデブ猫——撮影出来なかったけど2018、2019年にも見掛けたので、本格的に居付いてるもよう。
休憩中のサラリーマンから餌を貰い可愛がられてるせいか、丸々と肥えていました。
「おたぬきさん」に因み、「おねこさん」とお呼びしよう。
↑源流から数えて139番目の橋…「和泉橋」
橋の上を昭和通りが走る大きな橋、昭和通りの上には首都高速が走っています。
今回紹介した昌平橋から和泉橋までは、両岸とも千代田区に架かります。
↑和泉橋上より上流側を向いた風景…写真、右岸には防災用の船着き場が整備されています。
ユリカモメが羽を休めてる光景をよく見掛けるのですが、残念ながら訪れた日は一羽も居ませんでした。
目線を奥に移すと、先に紹介した神田ふれあい橋と鉄道橋——タイミング良く東北新幹線が通過して行きました。
↑橋の下流側へ向かうには、歩道橋を使います。
↑歩道橋上から撮った橋の写真…高速道の振動が常に歩道橋を揺らすので、結構スリル有ります。
↑和泉橋下流側に植えられた桜(河津桜?)と、和泉橋上より下流側を向いた風景。
次の橋までは結構距離有るのを感じますね~。
おまけに下流域に入ると川に沿って歩く事が叶わず、迂回続きになるので疲れるのです。
↑…という訳で、次の美倉橋までは、「柳原通り」を歩いて向かいます。
この付近は側に立つ案内看板によると「既製服問屋街発祥の地」だそうです。
「江戸時代後期、昌平橋から浅草橋の間に在った柳原土手に沿って、古着を扱う床店(とこみせ=露店の意味)が設けられ、日本橋富沢町と共に、江戸市中の古着を扱うマーケットの一つとして知られました。
明治維新後の1881(明治14)年、岩本町古着市場が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
日常衣類として洋服が普及し、一般の人々の需要の中心が既製服へ代わると、この地域でも既製服を扱う店舗が増加し、洋服の町へと変貌して行きました。」
「江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木が在った事から『柳原土手』と呼ばれていました。
(付近の町名の)岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(東北方面)に当たります。
柳森神社の社伝によれば、太田道灌が鬼門避けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりと云われています。
そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士達でした。
江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄え始めます。
更に土手の周辺では、古着を扱う露店が集まる様になりました。
その伝統は、明治維新後も引き継がれました。
明治14(1881)年、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。
『岩本町古着市場』と呼ばれたこの市場には、多い時には四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。
更に昭和に入ると、町内には4階建てのビルまで登場し、『和泉橋ダンスホール』が併設されました。
この様に洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形も無く焼き尽くされてしまいました。
それでも戦後、この地は『服の町』として蘇ります。
紳士服や婦人服の製造を手掛ける繊維メーカーが集まって来て、この町で作られた洋服が全国のデパートのショーウィンドゥを飾る様になりました。
現在、数こそ減って来ましたが、岩本町三丁目を支え、町の礎を築いて来たのは、こうした繊維業者です。
日本の繊維産業と共に発展して来た町、それが『岩本町三丁目』なのです。」
↑和泉橋下流側に立ってた案内看板より。
…何もかも跡形無く消し去る戦争は嫌だねえ…時期的に戦争に纏わる昔話は、読んでてしんみり致します。
それと柳森神社の社伝にさり気無く触れてますね。
始まりは「狸」より「狐」を主に信奉していた神社だったって事でしょうか?
現在でも柳森神社の前には柳が植えられていて趣き有ります。
古来、柳を解熱鎮痛薬として用いたのだとか…そこから鬼門封じに使われる様になったのかもしれません。
【続】
尚、撮影日は主に一年前の2020年3月末頃です(一部、今年撮影した写真も含みます;)。
で、前回「今回で終わり」とか言いましたが…済みません、後もう1回続けさせて頂きます。(汗)
↑源流から数えて136番目の橋…「昌平橋」
「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1624~1644年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。
橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)が在り、一口(いもあらい)橋とも呼ばれました。
他にも、相生橋と言う呼称も有りました。
その後、1691(元禄4)年に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷に因んで『昌平(しょうへい)橋』と呼ばれるようになりました。
少し下流に在った筋違(すじかい)門と共に、中山道・日光御成道(おなりみち)の主要道路として利用されており、橋の南側は『八つ小路(やつこうじ)』と呼ばれる広場として賑わいました。」
「御成道とは、徳川将軍が参詣等で通る道筋の事を言います。
江戸時代、この場所には江戸城外郭門の一つ『筋違門』が在り、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。
『筋違門』の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していた為です。
門内には火除けの広小路が在り、八つの口に通じていた為、俗に『八つ小路』と呼ばれていました。」
↑昌平橋側に立ってた案内看板より。
…現在の橋名は、前回紹介した聖橋の袂に建つ湯島聖堂内の孔子廟が由来になってるのですね。
重厚で精巧なデザインの親柱は、古くから主要道に架かる橋として利用されて来た歴史を暗示しています。
外堀通りと旧中山道が交わるこの場所は現在も交通の要、車両だけでなく複数の鉄道がこの橋の周囲を行き交います。
↑昌平橋上より上流側を向いた風景…中央線と総武線が——聖橋の方へ目を向けると地下鉄丸ノ内線が走る風景…コアな鉄道ファンになると、3本同時に写真に収める為、時刻表を元にシャッターチャンスを狙うのだそう。
鉄道ファンじゃない自分は、あっさり諦め、別々に収めました。
↑昌平橋上より下流側を向いた風景…右側の建物は旧万世橋駅の遺構。
↑下流側左岸に在る駐車場付近は、ユリカモメの休憩所になってました。(渡り鳥なんで、季節によっては観られない風景です)
…海に近付いてるのを実感する光景です。
↑昌平橋から次の万世橋まで、高架橋下に飲食店が続いており、食欲が刺激されます。
古い煉瓦造りがお洒落ですが、この造りは単なるデザインではなく、嘗ての旧駅の歴史に関わっています。
その話は下記にて——
↑源流から数えて137番目の橋…「万世橋」
これまた時代がかった重厚な親柱、背景にはそんな古式ゆかしい親柱のデザインにそぐわぬ近代的な秋葉原のメインストリート——最新のオタク文化を世界に発信するこの場所で、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った「萬世橋駅」の遺構が発見されました。
↑万世橋上より上流側を向いた風景…左側の煉瓦造りの古い建物が、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った、「萬世橋駅」の遺構です。
明治45(1912)年に開業し昭和18(1943)年に休業となった旧駅のホームや階段が、現万世橋付近の高架橋の中に一部発見されたのを機に、旧万世橋駅の遺構を「交通博物館」として再生したのです。
☆万世橋側の立ち寄りスポット…「旧万世橋駅(&マーチエキュート神田万世橋)」
施設の見所は、旧万世橋駅の開業時のホームを蘇らせた「2013プラットホーム」。
硝子で仕切られた展望カフェデッキに座り、中央線が両脇を行き交う様子を眺めれば、萬世橋駅が現代に蘇ったかの様に錯覚するでしょう。
現駅と旧駅の歴史が交差する浪漫溢れるスポット、SFと鉄道が好きな松本零士先生なら、作品を思い付いてくれるかもしれません。
…あいにく自分が訪れた日は、新型コロナ流行の影響で、交通博物館内を見学する事は叶わず、ライブラリー内の萬世橋駅周辺を再現したジオラマ模型のみ見学して来ました。
高架橋下に造られたショッピングストリート、「マーチエキュート神田万世橋」も覗いて来ましたが、こちらも新型コロナ流行の影響か、レストラン・バーが閉店してたりして、以前観た時より大分寂しい風景になってました。
閉店したフロアは無料で開放されてた為、周囲の風景を撮影するには有難かったですが。
↑万世橋上より下流側を向いた風景…次に架かる橋との間にはJR線鉄橋が架かります。
鉄橋を通る鉄道は、山手線、宇都宮線(東北本線)、高崎線、京浜東北線、北陸・上越・秋田・東北新幹線とバラエティー豊か、地図で線路を数えたら10線程有りました。
「明治5(1872)年に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。
この橋は、当時東京府知事の大久保忠寛が『萬世橋(よろずばし)』と命名したが、次第に『まんせいばし』という音読みが一般化した。
更に明治29(1896)年に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
明治36(1903)年に現在の位置に新しい萬世橋が架け直され、元萬世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。(勿体無い…)
この新しい萬世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12(1923)年の関東大震災で被災し、昭和5(1930)年に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
現在、神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正年末から昭和初期に架けられた物で、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたと云う。
トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川に架かる震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見出せる。」(←万世橋側の案内看板より)
…神田川下流に架かる各橋が、それぞれ異なるデザインなのは、震災復興のシンボルとして建造されたからなのですね~。
↑源流から数えて138番目の橋…「神田ふれあい橋」
道の切れ込みからひっそりと続く歩行者専用橋です。
出入口を見落としがちなせいか、側の街灯に表示看板が吊り下がってる…それでも見落とす人が居そうな程、道の死角に隠れる様に在ります。
元は新幹線工事用の作業橋だったのを、新幹線開業前の1988年、一般に開放したのが始まりとか…これは新幹線東京駅乗り入れに反対していた神田地区の住人との交渉から、妥協策として導かれたらしい。
江戸町火消しの纏をモチーフにした親柱が洒落てる、実は左岸と右岸で親柱のデザインが違ってる事に、去年初めて気が付いたという。(汗)
↑橋の上流側は写真の通り新幹線の防音壁が築かれ風景が望めないので、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の下流側を向いた風景のみ上げます。
右岸に見える柳森神社には、「秋葉原」の地名に纏わる神様が祀られています。
☆神田ふれあい橋側の立ち寄りスポット…「柳森神社」
狭い社内に小さな境内社が肩を寄せ合う様に集合してる神社です。
明治時代の神社合祀政策に因るものかな?
↑「福寿神(徳川桂昌院殿)」——柳森神社内で最大の境内社、参拝時、緑色の桜(ウコン?)が咲いてて綺麗でした。
「江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉公の御代、将軍の御生母『桂昌院』様によって、江戸城内に『福寿稲荷』と称して創建された。
桂昌院様は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍家光公の側室となり、五代将軍綱吉公の御生母となる。
大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと挙って御狸様を崇拝したと云う。
後世、元倉前甚内橋際、向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました。
開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上等に御利益が有ると信奉されております。
尚、当社において頒与する『おたぬきさん』と呼ばれる土製の親子狸の御守りは、素朴で、大変愛されております。」(←案内看板より)
↑後方、少し離れた所に建つ「おたぬきさん」の小社。
…なかなか可愛いじゃないか「おたぬきさん」!こんな愛嬌有る御守りなら、確かに人気を呼ぶだろう。
↑他に、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮とする、海運業者や商人から信仰を集めた「金刀比羅神社」や、
↑広島県宮島厳島神社と神奈川県江の島の江島神社と所縁が在るかもしれない「水神厳島大明神・江島大明神」や、
↑江戸時代に火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰を集めた「秋葉大神」を祀る小社が建っています。
説明の必要無いでしょうが、こちらの「秋葉大神」様こそ、「秋葉原」の地名の由来になった神様です。
↑更に商人からの信仰を集めた明徳稲荷神社、
↑同じくお稲荷様が祀られてる幸神社も建っています。
↑更に更に境内の一角には、丸くて大き目な謎の石が、ゴロゴロ積まれていました。
案内看板によると、これらは「力石群」と呼ばれる、千代田区指定文化財だそうです。
「江戸時代には、若者達の間で、重量の有る石を持ち上げて力自慢を競う事が流行しました。
明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりを見せます。
柳森神社の境内に在る力石の一群は、当時の力士で大関として名を上げた『神田川徳蔵』こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝える為に集められた物です。」
↑更に更に更に、境内の出入口側には、富士講所縁の石碑群も保存されてました。
こちらも同じく千代田区指定文化財だとの事。
「5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講の名残を今日に伝える物です。
富士講とは、富士山信仰を元に成立した民間信仰の一種で、江戸時代、特に町民や農民の間で流行しました。
柳森神社は、1680(延宝8)年に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。
『東都歳事記』には、天保年間(1830~1844年)頃の『富士参(富士浅間神社への参詣)』の例として柳森神社の事が採り上げられています。
1930(昭和5)年には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960(昭和35)年に取り壊され現存していません。
石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字が在り、この頃に富士講を再興させようという動きが有った事が解ります。」
↑手水舎には浅間神社の札(?)が貼ってありました。
…総合するに、江戸時代のパワースポットを纏めてお祀りしたのが、「柳森神社」という事らしい。
そんな江戸庶民からの信仰を集めた神様達の御社に居付いてるのが、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真のデブ猫——撮影出来なかったけど2018、2019年にも見掛けたので、本格的に居付いてるもよう。
休憩中のサラリーマンから餌を貰い可愛がられてるせいか、丸々と肥えていました。
「おたぬきさん」に因み、「おねこさん」とお呼びしよう。
↑源流から数えて139番目の橋…「和泉橋」
橋の上を昭和通りが走る大きな橋、昭和通りの上には首都高速が走っています。
今回紹介した昌平橋から和泉橋までは、両岸とも千代田区に架かります。
↑和泉橋上より上流側を向いた風景…写真、右岸には防災用の船着き場が整備されています。
ユリカモメが羽を休めてる光景をよく見掛けるのですが、残念ながら訪れた日は一羽も居ませんでした。
目線を奥に移すと、先に紹介した神田ふれあい橋と鉄道橋——タイミング良く東北新幹線が通過して行きました。
↑橋の下流側へ向かうには、歩道橋を使います。
↑歩道橋上から撮った橋の写真…高速道の振動が常に歩道橋を揺らすので、結構スリル有ります。
↑和泉橋下流側に植えられた桜(河津桜?)と、和泉橋上より下流側を向いた風景。
次の橋までは結構距離有るのを感じますね~。
おまけに下流域に入ると川に沿って歩く事が叶わず、迂回続きになるので疲れるのです。
↑…という訳で、次の美倉橋までは、「柳原通り」を歩いて向かいます。
この付近は側に立つ案内看板によると「既製服問屋街発祥の地」だそうです。
「江戸時代後期、昌平橋から浅草橋の間に在った柳原土手に沿って、古着を扱う床店(とこみせ=露店の意味)が設けられ、日本橋富沢町と共に、江戸市中の古着を扱うマーケットの一つとして知られました。
明治維新後の1881(明治14)年、岩本町古着市場が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
日常衣類として洋服が普及し、一般の人々の需要の中心が既製服へ代わると、この地域でも既製服を扱う店舗が増加し、洋服の町へと変貌して行きました。」
「江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木が在った事から『柳原土手』と呼ばれていました。
(付近の町名の)岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(東北方面)に当たります。
柳森神社の社伝によれば、太田道灌が鬼門避けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりと云われています。
そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士達でした。
江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄え始めます。
更に土手の周辺では、古着を扱う露店が集まる様になりました。
その伝統は、明治維新後も引き継がれました。
明治14(1881)年、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。
『岩本町古着市場』と呼ばれたこの市場には、多い時には四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。
更に昭和に入ると、町内には4階建てのビルまで登場し、『和泉橋ダンスホール』が併設されました。
この様に洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形も無く焼き尽くされてしまいました。
それでも戦後、この地は『服の町』として蘇ります。
紳士服や婦人服の製造を手掛ける繊維メーカーが集まって来て、この町で作られた洋服が全国のデパートのショーウィンドゥを飾る様になりました。
現在、数こそ減って来ましたが、岩本町三丁目を支え、町の礎を築いて来たのは、こうした繊維業者です。
日本の繊維産業と共に発展して来た町、それが『岩本町三丁目』なのです。」
↑和泉橋下流側に立ってた案内看板より。
…何もかも跡形無く消し去る戦争は嫌だねえ…時期的に戦争に纏わる昔話は、読んでてしんみり致します。
それと柳森神社の社伝にさり気無く触れてますね。
始まりは「狸」より「狐」を主に信奉していた神社だったって事でしょうか?
現在でも柳森神社の前には柳が植えられていて趣き有ります。
古来、柳を解熱鎮痛薬として用いたのだとか…そこから鬼門封じに使われる様になったのかもしれません。
【続】