馬齢を重ねてきて、ことの善悪、ものの判断はそれなりに出来ると認じている。にも拘らず、この齢にして確たる判断が出来かねるものが二、三ある。いや、もっと検討すれば次々と現れるだろう。
それはともかくとして「死刑制度」について、私は未だに判断を保留し、定見や合理的な見解を持ち合わせていない。
表向きとしては、人権擁護の観点から、冤罪が起こる素地が日本の警察・法制度にあることで、死刑反対の立場をとっている。社会性生産力が極めて劣った一民間老人として、何も偉そうに「立場」を表明したって、どうってことないのであるが・・。
しかし、人間が本来持っている報復、復讐などの心情を突き詰めると、「死刑制度」は必要悪として認めざるをえない、とも思っている。この世の中には想像を超える非道の人間が出て来、たとえば、あの相模原事件のような凄惨な大量殺戮をおこした植松何某を想い浮かべると、抑え切れない怒りの感情が湧いてくる。
凶悪な犯人に対する被害者の家族は如何なる思いをもつものなのか?
その心情を推し量れば、「復讐心」とか「死には死を」のような感情は当然のごとく抱くと思うのだが・・。私自身が被害者の家族になったとしたらどうか。犯人のあまりにも残虐、極悪の犯行が明らかになる。謝罪や悔悛をみせることもなく、自らの犯した罪を誇らしげにしかも薄ら笑いを浮かべる犯人が目の前にいるとしたら・・。「死刑制度」は適用されるべきだ、と私は本気で思うことだろう。
ただ、声高らかに「死刑制度」を反対だと言えないし、正確な判断や決定ができる自信はない。まして「裁判員」に任命されることさえも怖気づく、それが今のわたしである。
いま日本では死刑制度は依然として80%もの高い国民の支持を受けているという。分からないまでもないが、しかし異様に高い支持率ではある。弁解の余地もない極悪非道な殺人事件、それを何回も繰り返す犯人なら死刑も当然というのが、世のひとの一般的心情といえるのだろうか。
明治以前には、「敵討ち」なぞという、理不尽な殺人への復讐ともいうべき武士の慣習もあった。いまの歌舞伎でもそんな報復劇はかなりの人気演目だ。日本においては私刑、死刑などを寛容に受けとめている風土があるといえようか。
さて、昨日のビデオニュースは、「死刑制度廃止」がテーマであった。
今月のはじめに、日本弁護士連合会が2020年までに死刑制度の廃止を宣言した。それを受けての放送かもしれないが、超党派の「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長である亀井静香がゲストで出た。彼は警察官僚時代の自らの経験を元に、現在の刑事制度の下では冤罪が避けられないとして、死刑に反対する立場をとっている。彼の論拠はただ冤罪の不可避性だけでなく、死刑廃止によってもたらされる社会の健全化も訴える。
また、亀井氏のある一言が、私にとっても重く、「死刑廃止」を再考する良いきっかけとなった。政治理念や天皇制について考え方は異なるが、法権力の限界を見極め、その方策を建てる胆力のある人が自民党にもいたのだ。(選挙対策のため、多くの議員がこの「死刑廃止議員連盟」を脱退している)
その一言とは、「死刑の執行場面をみれば考え方は変わるんだがな」である。
以前、ISが国際ジャーナリストを処刑する映像をユーチューブで次々に公開した。日本人も含まれていたが、私は臆病ゆえ敢えて見ることはしなかった。強制的にみるように仕向けられても正視できるかどうか・・。銃による処刑か、ナイフによる斬首か。映画では残虐な処刑シーンは普通に見られるが、実際の場面ではたぶん目を背けるだろう。
現在、死刑がある先進諸国といえばアメリカと日本。韓国にもあるが、事実上は執行されていない。アメリカは昔、電気椅子による処刑だったが、人権を考慮(?)して薬物になったという。ヨーロッパからの輸入品で即死に近い薬を使った。しかし、最近はそれが生産中止となり、アメリカは自国のものを使うようになった。粗悪品のためか即死に至らず、死刑囚はかなり苦しみながら死に至るのだと、ビデオニュースの神保氏は語った。また、日本ではいまだに絞首刑が行われてい、死刑執行の後進性、残虐性は国際的に問われているということだった。
いま一度、特異な事件、殺人者を想定しないで、一般的な死刑受刑者の人権の観点から考える。
冤罪はゼロにならないから、死刑制度は明らかに問題がある。
人権の理念は、全ての人を個人として尊重せよということ。他方、死刑制度は、特定の人を死すべき存在として断定する。つまり、人権の理念と死刑制度とは相反するから、死刑廃止を実現すべく十分な法的理由がある。
「一般に、死刑制度の果たす機能として(1)重大犯罪の抑止(2)社会の応報感情の満足(3)被害者の感情への配慮-の三つが指摘されている。」
ということで、死刑廃止を目指すなら、徹底した被害者支援が欠かせないということだ。それには、法整備を拡充するだけではなく、国民の理解が不可欠というありきたりの結論におちつく。被害者に対する理解と配慮を深めてゆかねばならない、とその法学者は結ぶが、それゆえに私は以下の判断とする。
死刑制度は廃止の方向として考え、終身刑で対応するように整備する。大量殺人や情状酌量の余地のない受刑者には50年から100年までの終身刑という量刑を設定する。制度移行期には特別に死刑公開も行い、国民にひろく議論を喚起できるよう配慮する。その際には絞首刑は行わない。
▲死刑をテーマにして舟越桂は避けたかったのだが・・。彼の彫像は、心を沈静させ、深い思索へとうながす。
秋の夜長にハードなテーマを選んでしまった。書いてきて辛いものがあったし、読まれた方がいたならしんどい思いをさせてしまった。自分として避けることのできないテーマであり、今の時点で判断基準の骨格ぐらい明確にしておきたかった。裁判員制度についても詳らかでないし、その概観ぐらい把握するため本を読もう。
徳川家康は鯛の食べ過ぎで死んだといわれるが、釈迦が死んだのも単なる食中毒だったらしい。死に際には美しいも、汚いもない。ある日突然やってくるのだから、取り乱したり泣き叫んだりすることもあるだろう。きれいに立派に死ぬことができれば、運が良かったというだけだ。
毎日の積み重ねというか、日頃の判断とか考えておくべきことは、やり残さないのがベター。先日は宇都宮で70過ぎの老人がテロ事件のような自爆事件を起こした。ブログとかフェイスブックもやっていたらしく、人気の「極東ブログ」によると、自身の不遇にかこつけて炎上を起こしたかったらしいが、反応がまるでなくそれで自暴自棄になったとか・・。
私にしても未熟なところや、考えが及ばないことが多い。ま、格差社会が原因なのか、世の中がなんとなく不穏で、今までにない嫌なことが起きている。ゾンビなぞの血塗られた格好して日頃の鬱憤が晴れるなら、大いにあばれ遊んでほしいものだ。私にはどうも理解できないが・・。
冗長、乱文、失礼しました。