小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

素の自分とはなにか (※)

2018年10月09日 | 日記

(※1)この記事の公開は期日限定とする。公開するに至らないとして躊躇し、留保した記事は現在10ぐらいあるだろうか。この「素の自分とはなにか」という記事もそうだが、前夜のアクセス解析で7人ほどの方が読んだことになっていた! 記事がサイバー上に存在しないはずなのに、何故なんだろう? この記事だけは一度アップしたが、思いなおして一時間以内に削除したものだ。それがなんで昨夜にアクセスの記録があるのだろうか。 気持ち悪い! 再度アップしサイト運営元に調査を依頼するために、不本意ながらアップする。実際に書いたのは2か月ほど前だった?!

それにしてもどこが「素の自分」なのか、そのことが書かれていない。少々酩酊したまま、筆に随いながら書いた。自己分析すれば、酔った自分の馬鹿さ加減を自己解放する、それが「素の自分」だといいたいのだろうか。どーぞ笑って、憐れんでください。とはいえ、好きだったナウエル・ペニシを組込んでいる。記憶と脳の不都合がどんどん進んでいるのか・・。

 

2,3日いろいろ書いている。書きだすとき、朧げな骨子はあるのだが、書いている途中で理路が妖しくなる。

こういうことは経験としてよくある。最初の全体イメージ、引っかかる言葉を記憶に残し、時をかけて熟さねばならない。

関係ないもの、真逆なもの、感情が乱れるもの、それらを忌避するのでなく、じっと見つめる、あるいは触って転がしてみる。

ある事象を思いえがき、そして考える。自分なりの捕捉イメージ・キーワードをあぶり出す。

ときに自分にとって切実な、改悛&改変を迫られることもある。

このときだ・・いちばんの「大切」に出会うときは・・。

 

しかしながら、何もまとまらない。思考停止以前の、くるくるパーな「素」の状態のときもある。

いまは、「元素」の自分かもしれない。溶融するか、分裂するか、その先はわからない。

ふつう人は、エンカレッジしてくれる友人、音楽etc.に助けを求めるのではないだろうか。

そして、どちらかといえば私は独力で、静かに落ち着ける「心地」をさがすのだ。

「個」と「弧」を融合する何かを。(書いてみると格好良さげだが、笑止千万乃至激昂噴飯ものだな)

 

今宵またまた、定番のマルクス・アウレーリウスに、やるせなく吾が心は着地点を見出した。


眼前に横たわるものの一つひとつを注意深くながめ、それがすでに分解しつつ変化していて、腐敗と分解を繰りかえす最終段階にある。

そのとき、この世のあらゆる生物は死ぬために生まれてきた、その事実を見きわめよ。

 

自分用に現代文的に書きなおしてみた。爛熟期のローマ皇帝が、秩序回復と平定のための権力行使を空しく感じている。生命のはかなさ、尊さを詠嘆している。

ここまで書いてきて、素の自分に立ち返って、聞いてみたい音楽をさがしたくなる。

でも、やはり一時期よく聴いていた音楽に落ち着くのだ。なんか情けない、けど仕方ない。

 

Samba del angel/Nahuel Pennisi/ primer ensayo/ 13-10-2001

▲アルゼンチンのホセ・フェリシアーノ、スティーヴィー・ワンダー・・。


追記:サイト運営者にチャットで問い合わせた。記事を非公開にしても、記事のURLは存在しているから、「クローラー」という自動的にWeb上の情報を収集するプログラムがあり、それがアクセスしたのだという。そういうことを、例えば私のような個人ができるのか、と尋ねたところ、「google等の大手企業が情報収集のためにそのようなプログラムを使っています」ときた。悪性のウィルスでないと分って安心したが、ネットには素人の分からない難しいことがある。

この記事は、タイトルが嫌らしく、また内容とは合わないが、以上の経過がある「いわくあり」ということで、公開することにした。どなたかの参考になればうれしい。老人が酔ってブログなんぞ書くとこんなこともある、という生きた参照事例になるであろう。(10.9) 

再追記 「大樹さゑまざまざ倒し野分かな」に掲載した、リトープスの2鉢目が咲いたのでここに載せる。後方の唐芥子は昨日、地元の祭りで買ったものだ。

上の唐芥子↓

▲この唐芥子の、新鮮なことよ!


 


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